昨夜はよく眠れなかった。ケルビを好きになってから僕は寝付きが悪くなってしまった。昼間うとうとしてしまうのも、恋煩いと呼ぶのだろうか。
【貴公子の瞳に宿る熱】
学校はいつもと同じ。ここに居る人は増えたり減ったりしているのだろうけれど、きっと『学校』は10年前も20年後も変わらず『学校』であり続ける。
僕の恋も誰かの恋が始まったり終わったりすることの中に含まれているのかな。
哲学、みたいなものを感じる。
「おはよう、リノ」
「おはよう」
「顔色が悪いな。具合が悪い?」
アグナコトルの鋭さと優しさに恥ずかしいような喜びを覚えながらも、彼がケルビに恋していることを知っている僕は不思議な気持ちになった。アグナコトルの優しさに下心がないことを尊敬する反面、却って嘘っぽいとも思う。
ごめんなさい。
僕が捻くれているだけです。
「ありがとう。大丈夫だよ。朝が弱いだけ」
僕が答えるとアグナコトルは優雅に笑んで「そう。良かった」と言った。
彼が“王子様”とか“貴公子”とかいうあだ名を付けられて、大勢のファンをつかまえていることにも納得だ。他校生にも人気があると聞いたこともある。
「授業のノートならいつでも貸せるから、具合が悪くなったらちゃんと休むんだよ」
アグナコトルはそう言って僕の頭を撫でて自席に着いた。
近くにいた同級生が「憧れる」「嫌味じゃない」「恋人にしたい」と口々に言うのが聞こえた。たぶんアグナコトル本人にも聞こえていると思うけれど、彼らにとってはその方が良いのかもしれない。
僕なら、好きな人にそんなことは言えない。
情けないけど僕は人生で一度も人を好きになったことがなかった為に、今でもまだ告白という深刻な課題に及第したことがないのだ。
採点基準が分からない。
合格基準が分からない。
応用問題にも基礎問題にさえも答えられる気がしない。
告白している時にくしゃみすれば減点されるのだろうか。
悩ましい。
そうだ、僕は毎夜、ケルビに想いを伝える妄想をしては寝不足になり、現実にはケルビとよく話せてもいないのに、ケルビが良い返事をくれたら僕達はその後どうなるのかなどといった根拠のない皮算用をしている。ケルビに知られたら、というより誰かに知られたらきっと自己嫌悪と羞恥により登校拒否することになるだろう。
ケルビと話したい。
もっと僕のことを見て貰いたい。
アグナコトルみたいにはできないのだから、それは僕なりのやり方で。
「あ、そうっす。すんません」そんなことを電話で通話しながら教室に、ケルビが、来た。
朝からちゃんと来るのは数日振りだ。
教室がそわそわし始めた。
「ちゃんと来てます。ホントっす」「モチロンっす!」「はい。失礼します」そう言って通話を切るまで、おそらくクラスの半分以上の人間がケルビに注目していた。
そのうちの更に半分くらいは、ケルビに話しかけるタイミングを探っていたと思う。
僕がそうだ。
「おはよう、ケルビ」
口火を切ったのはアグナコトルだった。
「おう。おはよう」
ケルビが返事して、アグナコトルは僕にしたのとは全く温度の異なる笑みを浮かべた。熱い、欲望の宿った瞳の中に、僕には焔が渦巻いているのが見える。
アグナコトルは「ははは」と笑った。
「時間割は分かる? 教科書がなければ俺のを貸すし、そうであれば俺の隣の奴と席を代わって貰おう。俺は担任にお前のことを頼まれているし、お前の為なら進んで力を貸すよ」
「悪いな」
「それで。教科書は?」
アグナコトルはぐいぐいケルビに近付いて、机の中を覗き込む勢いだ。
隣の席の人が羨ましげに二人を見ている。
僕もあんな顔をしているに違いない。
「買って貰ったんだけど、重くて持ってくんのだりぃんだよな」
「いいよ。俺のを貸すから」
「いらねーよ」
「何故?」
アグナコトルは少し怖い顔をした。
目の奥で赤く揺らめくものが見えた。
恋の火焔。
アグナコトルの炎はきっと彼自身にも制御不能の恋心と支配欲の業火だ。熱く滾って身を焦がし、冷めてもなお身の内で燻る。彼は苦しそうな顔でその炎を愛でる。
「教科書借りても、俺、お前に返せるもんがねえから」
ケルビはそう言ってアグナコトルを手で払う仕草をした。
しかしアグナコトルはめげない。
「貸し借りなしで良いよ」
「俺が嫌なんだよ」
「友達に頼るのを借りを作るとは言わないよ」
「俺が嫌だっつってんだろ!」
ケルビは唸った。
それがアグナコトルに通用する訳がないことは、おそらくケルビを含めた全ての者が気付いていただろう。ケルビはそれを分かったうえでアグナコトルを威嚇したのだ。
ただで負けるのは許せない、その気持ちは俺にもある。
アグナコトルはケルビの威嚇を相手にしないだろうと俺は思った。しかし現実は違った。
「ごめん。しつこくしたね。必要だったらいつでも頼っていいから」
アグナコトルは逃げた。
僕には見えた。
恋の火焔。
アグナコトルは髪の赤を鮮やかにして、恋の火焔に焼かれながらなお顔には笑顔を見せて、地獄のようなその場所から這い出るのを拒否した。焦熱からは逃れられない。彼がその秘めた想いと決別しない限りは、逃れられない。
僕はアグナコトルの熱を、少し心地よく思った。