繋いだ同級生の手が男らしくて驚く。
長身で強面の男性の手を引いて警察官から逃げる僕。その直前に僕はその人の前で泣いてしまったことも忘れてはいない。情けないったらない。
どうにも説明できない状況だ。
「お前、大丈夫か」
僕の背中にはそっと手が添えられた。
それもまあ当然と言えば当然のことかもしれない。
僕は泣く程感情が高まった直後に全力疾走したおかげで、運動不足の身体が悲鳴を上げて息が切れて変な呼吸音は鳴っているし脂汗は出るし、運動したというのに悪寒がして指先が冷たくなっているし、そんな風に明らかに普通じゃなくなっていた。
不良に心配される僕。
やっぱりどうもよく分からない。
「……」
返事をするのも億劫だ。
けれども僕は身体に鞭打って歩く決意をした。これ以上心配を掛けたくないから。あとは今一緒に居るこの時間が途轍もなく気まずいから。
それに身体が痺れるくらい疲れてる。
ああ、寝転びたい。
「どっかで休むか。走って俺も疲れたわ」
「い、いい。あの、大丈夫だから」
とても大丈夫には見えないだろう。
「満喫行くか。あそこに見えてるし、もう少し歩けばもっとあるかもしれねえし。まあどれも一緒か」
断ったのに、話しが続いている。
また断った方がいいのかな。どうしよう。帰りたいのに。
それに、なんか、見られている気がする。直視できないから確認はできないけれども視線を感じる。こんなに直ぐ近くに立っているから当たり前か。じゃあどうしたらいいんだろう。
なんだろう、この状況は。
背中に置かれた手はさっきまで僕と繋がれていたのだっけ。いや逆の手だったかな。
なんかよく分からなくなってきた。
これってどういう状況なの?
なんでこんなとこに居るんだろう。
身体が重い。
「横になりたい」
あ。吉田くんは?
遊ぼうって言ってたのに。
なんでこんなことになったんだろう。
「あー、じゃあホテルで休む?」
「へ?」
上擦った僕の声に、向こうの方が驚いたかもしれない。僕だって驚いたくらいだし。
「横になれる」
な、なに?!
横になるってなに?!
「あ、ぼ、ぼ僕は、あ、えっと、えっとあの、あ、ああいや、あの」
ホテル?!
横になる?!
えええ、横になる?!
「歩けるか?」
背中にあった手を腰に回されて、身長差の為に彼の身体が僕に覆いかぶさる体勢になった。
わ!
え!
な、なん?!
なんで?!
「帰ります」、とそう言おうとしたとき、僕の視界は真っ白になった。ただの立ちくらみかと思ったけどそうではなく、視界が真っ白のまま身体から力が抜けて立っていられなくなった。
ホテルは嫌だ!
帰りたい!
もうやだ!
そして僕は気絶した。
ゆらゆら揺れて目を覚ます。
……背負われている。
おんぶ、だ。
エレベーターに乗っている。目的の階らしいところで降りたら、そこはホテルみたいな場所だった。
「……」
ほ、ほて、ほほホテル?!
え!
え?!
カードをかざすとロックが解除された。軽い屈伸で僕を背負い直すと迷いなく部屋に入っていく。そして僕はベッドに下ろされた。
「あ、起きた」
目が合った。
どうしたらいいの?
なんて言うべき?
寝た振りをしても事態が好転することは無いだろうから、これで良かったとは思う。でも彼の視線には耐えられない。
「あ、かかか帰ります」
「は? 何言ってんの? 休んでけよ」
なんでこうなったんだろう?
なんで?
なんでなんで?
起き上がって帰ろうとしたら立ちくらみがした。正確には上体を起こしただけなので立ちくらみではないかもしれないけれど、起きていられなかったから目を瞑って右手で身体を支えた。大丈夫、直ぐに治る。
でも、それは突然。
強い力でベッドに押し倒された。
何?
くらくらする。
目を開けると、顔があった。綺麗な顔。
直ぐにそれは彼が僕に跨って僕の両肩を押さえ付けているからだと理解した。僕よりずっと大きい身体が上にあるから、蛍光灯の光が洩れ注いでくるようだった。
虎だと思った。
黄金に輝く毛並みを持つ美しく恐ろしい猛虎が、僕を見下ろしている。
「お前さぁ、俺の名前わかってる?」
質問だった。簡単な質問。
名前?
名前。
「……」
それは答えられなくて当然だろう。僕は吉田くんの友達であって目の前の不良っぽい同級生とは友達ではないし、僕が彼に「森田光です」と自己紹介したことはあってもその逆はなかった。
僕はサイキック男子高校生ではない。
知りようがない。
僕の両肩を押さえ付けていた両手が今度は僕の両腕を掴んだ。怒らせてしまったのか少し痛いくらいにその手に力が込められている。
怖い。
正直、怖い。
「名前を覚えてほしけりゃ自分から名乗れ!」とは言えない僕は、そっと目を逸らした。
「俺のこと怖いの?」
「……」
怖いよ。でもそんなことは言えない。
「こういう場所で、何するか、知ってる?」
虎の目は、きっと僕を見ている。舐めるように、僕のことを見ている。
「なあ、聞いてる?」
聞いてる。聞いてるに決まってる。
「風呂に入ろうぜ。もう湯は張ってあるから」
「な、ななに」
「知ってんだろ。初めてなの?」
「ちちちち違う」
「へえ。意外。じゃあもう遠慮しなくていいんだ」
「違う!」
何が違うんだ。
僕は頭の中ではすらすら言葉が出るのに、口からはおかしな吃音ばかりが出てくる。
彼は何がしたいの?
何をしたいの?
「ふかみ、くん」
僕が言うと彼は手で僕の腕を押さえ付けるのを止めた。大きくてごつごつした男らしい手は丸で僕のことを優しく包容するかのように僕の頬をゆっくり撫でた。
こんなのはおかしい。
「なんだ。名前知ってんじゃん。焦らすのうまいね」
違う。
何もかもが違う。
それでも彼が心底安堵したように、母の胸で眠る子供のように安心した表情を見せたから、僕は途方に暮れてしまった。
「悪い、変なこと言って。全部忘れて。あー、せっかくだから俺はちょっと寝るわ。あんま寝てなくてだりぃ」
大きな身体が寝転んでベッドが軋んだ。解放された僕の身体は途端に軽くなった。
「お前、帰っていいよ」
そう言われて僕はゆっくり上体を起こした。
虎を見る。
閉じられた眦の裏には、あの鋭い眼光が今も光っているのだろうか。
「僕と友達になりたいの?」
なんでそんな不遜なことが言えたのか、それは僕にも分からない。
僕は虎を見る。
虎も僕を見た。
「……」
今度は、黙るのは向こうの番だった。
「意地悪されるのは慣れてるんです。クラスでいじめられてたから。本当に嫌われてるなら、分かりますよ」
僕のことを嫌っている人、影響されている人、楽しんでいる人、詰まらなそうな人、そういうのがなんとなく分かるようになった。
この虎は、そのどれとも違う。
「ああ」
彼の溜め息みたいな相槌は、なんだか大人っぽかった。
「寝よ」
僕はそう言って薄い掛け布団を捲って中に潜った。中はひんやり冷たくて気持ちいい。
暫くすると大きな身体が隣に並んだ。体温が伝わってきて温かいから緊張してた筈の心がリラックスできてうとうとする。
「森田、俺の名前呼べよ」
「ん?」
「寝ぼけてさっきの忘れる前に、俺の名前」
「んー、名前しらない」
「はぁ?」
「自己紹介しないもん」
「俺がってこと?」
「んー」
「深水譲。譲でいいよ」
「ん」
なんか、うるさい。
「譲」
「んー」
「なあ、お願い。呼んで」
「よー」
「ああ、おしい。譲だよ。譲」
「よー。んるさい」
「ごめん。でも名前呼んで欲しいんだ」
「じょー」
「……うん。おやすみ」
その日、僕は深水と抱き合う夢を見た。
【白い夢】