※夢枕版 陰陽師
※晴明を好き過ぎる博雅
※
妄想設定
春が終わる頃のことである。
博雅は晴明の家に上がって窓から外を眺めていた。伸びた背中は定規でも差しているかのようにぴんと真っ直ぐである。
博雅の隣、いつも居る筈の晴明は居ない。昨日までに終わらなかったという仕事の為に休日を返上して働きに出てしまっているらしい。らしい、というのは、博雅はそのことをまだ晴明から確かに聞いてはいないからだ。
晴明の家に向かう途中、「晴明は居るかな」と呟いた時だった。
メールが届いた。
『仕事の都合で家を留守にしている。暫く待てれば、中に居てくれ』
博雅は思わず、そっと辺りを見回した。
晴明は時々そういうことをするからだ。遠くから眺めてひっそり笑っているような悪戯をする。博雅が驚いて顔を赤くするのを見るのが好きらしい。
「なんだ。偶然か……」
そういうことに、することにした。
博雅は晴明から預かっている鍵で家の中に入ると勝手知ったる様子でいつもの部屋まで真っ直ぐ上がった。手に持っていたカバンとジャケットを床に置いて出窓に腰を掛けると窓から外を眺めた。
約束をしていた訳ではない。
なんとなく来てみたら留守だった。
そうして今、桜を眺めている。
博雅は晴明と会うのに約束をすることが余りない。だから今日のように晴明が留守にしていることもあるし、博雅も晴明を待たずに目的を変えてその足で他の場所に向かうこともある。今日はなんとなく待つ気になった。晴明が来なくても良いとさえ思った。
「桜が散って、見事だなあ」
博雅の感嘆に応えるように桜がまたひらひらと散る。
桜吹雪。
晴明の家の庭にある桜はそう大きくはないが豊かに咲いて見事である。満開の見頃を少し過ぎた今でも大変美しい。
博雅は溜め息を吐いた。
「はあ。晴明はこんな日に仕事か」
それは博雅自身にとっても無意識の独り言である。晴明が居れば指摘されただろうが、今は本当に一人きりの独り言だったので桜の舞う空気の中へ悲しく溶け込むだけだった。
そんな独り言がいくつも零れた。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
来客を告げるチャイムが鳴った。
博雅はその音を聞いてから、一晩過ごしてしまったかと思うほど、長い時間そこに居たように思った。あれほど散ったかと思った桜の花弁がまだ木に多く残っているのを見て、一晩は経っていないのかな、と思ったくらいだ。
「晴明は、いないよな」
博雅は部屋を出て居間などを覗きながら玄関に向かったが、晴明は見当たらない。
「どなたですか」
博雅という男は、躊躇しない男である。
相手が郵便や宅配の人間であれば出てしまう積もりだ。
「ミャオ」と、猫の声がした。
「猫?」
博雅は誰がチャイムを鳴らしたのかとも思わずに、直ぐに玄関の扉を開いた。
猫が居た。黒い、毛並みの艶やかな猫である。
そして、男もいた。
「こんにちは」
そう挨拶されると相手が誰でも挨拶せずにはいられない性分の博雅は、しまった、という顔をしながら「こんにちは」と短く返した。
男は名前を賀茂保憲という。
博雅はこの男を尊敬している反面、なんとも言えない接しづらさを感じもしていた。晴明は保憲に頭が上がらないが、それだけの理由を感じるところがこの男にはある。
「いま一人なの。晴明は?」
保憲はにっこり笑って尋ねた。
「あの、留守です。居ません。晴明に用事ですか」
博雅は猫をちらっと見てから答えた。
博雅の目線を感じた保憲は、同じく猫に目線をやった。黒猫は保憲の足に擦り寄って喉を鳴らしている。
「私を家に上げたら、博雅は晴明に怒られちゃうかな?」
博雅は少し考えてから首を横に振った。
「そういうことは、ないですよ。中にどうぞ」
恐る恐る、といった気持ちを押し隠して、博雅はなるべく堂々と接した積もりだ。
博雅の気持ちを知ってか知らずか、「ありがとう」と柔らかく言って、保憲は晴明の家の敷居をさっさと跨いだ。物腰は柔らかいのに、有無を言わさない雰囲気がある。
「こいつも良いかな」
保憲は黒猫を片手で持ち上げて尋ねた。
博雅はちょっと考えてから、晴明が前に猫を家に上げることがあると話していたのを思い出した。
「たぶん。良いと思います」
保憲は朗らかに笑った。
保憲は晴明に用事があったが、急いでいたかというとそんなことはない。電話一本入れれば済む用事だった。
今日、保憲がここまで来たのは、そういう勘が働いたからだ。
博雅が居る気がする。
博雅が自分を家に上げる気がする。
そのとおりとなった。
昔から保憲は『勘』が利く。泰然とした態度とは裏腹なその鋭い勘を、晴明も一目置いている。保憲自身はそのことを分かっているのかいないのか、周りからは判然としないところも保憲という男の特徴だった。
一つ許すと、全てを知られる。
見張っていると、微動だにしない。
博雅がじっと見ているのに気付いて、保憲は破顔して「触ってもいいよ」と猫を片手で拾い上げると博雅の前に差し出した。博雅はそれには答えずに慌てて目を逸らした。
「こっちにどうぞ。掛けてください」
博雅が言うより早く、保憲は客室のソファに深く腰を下ろしていた。膝の上で黒猫も寛いでいる。
保憲は穏やかに博雅を呼んで隣に座るように促した。
博雅は体が大きい方だけれども保憲はもっと大きかった。言われてソファまで歩み寄ったはいいが、博雅が座れば二人の距離が近くなり過ぎる気がして博雅は頭を掻いた。
「俺達にはちょっと狭いですよ」
保憲は首を傾げた。
「でも二人掛けだ」
話しが通じない。
投げた言葉のボールを手品でウサギに変えられてしまった気がした。
博雅は保憲に寄り添って座るのが憚られたので、「お茶淹れてきます」とはぐらかしてその場を離れることにした。保憲は特にそれに何か言うのでもなく、にこにこ笑って「うん」と頷いた。
博雅はキッチンをぐるりと見渡して取り敢えずお湯を沸かすことにした。たまたま電気ケトルが目に付いたからだ。そしてお湯を沸かす間、スマートフォンをポケットから出してじっと見てみた。
晴明。
帰って来い、晴明。
博雅は祈るようにスマートフォンをじっと見ているが、本人にその自覚はないだろう。
頼むよ、晴明。
そうだ。俺はお前に会いに来たんだ。
その時だった。
スマートフォンが震えた。画面には晴明の名前が映っている。着信だった。
「晴明!」
慌てて呼び出しに応じると、向こうで晴明がくすりと笑うのが分かった。あの赤い唇が弧を描くのが見えた気がした。
「どうした。そんなに慌てて」
晴明が笑う。
「慌てた訳ではない」と博雅は口を尖らせた。
「慌ててなければ、もっとおかしかったぞ。待ち侘びた恋人からの電話に出たような声だった」
晴明は、今度は声に出して笑った。
「そ、そんなことよりな、晴明。お前に客が来ているよ。いまお前の家に居るんだ。この間のことじゃないのか。晴明、言ってただろう。保憲さんが会いたがってるって」
博雅は辺りを見回しながらそう言った。晴明に見られている気がしたからだ。自分を見てほくそ笑む晴明が容易に想像できるのでちょっと怖くなっている。あり得ないことではない。
「保憲さんのことが嫌い?」
晴明が尋ねた。
博雅は考えてみる。保憲は確かに掴みどころがなくて不思議な男だが、嫌いかと聞かれると全くそんなことはない。
「嫌いじゃない。いや、俺はむしろ……」
その言葉は最後まで続かなかった。
「博雅」
その声は優しくて穏やかで、けれども確かに言い知れぬ圧力があった。それが晴明からのものなら良かったのに、と博雅は思った。声の主は保憲だった。
「遅いから心配になって来てみたんだ。電話してた?」
博雅の手にあるスマートフォンを見て保憲は尋ねた。
博雅は何故か後ろめたくて通話を切った。
「いえ。すみません、お茶淹れるの慣れてなくて」
慣れてない、なんて謙遜にもならない。まず急須も湯呑みも用意できていない。
晴明の自宅なので博雅が客をもてなすことがそもそも間違っているのだが、そのことには二人とも自覚がなかった。
博雅がキッチンの戸棚を開いて急須を探すと、保憲もそれを手伝った。
しかし、それらは結局見付からなかった。
博雅は気まずさから何度も同じ引き出しを開けたりした。
「ねえ。外に出ない?」
とうとうそう口に出したのは保憲だ。
「でも」と戸惑う博雅を強引に言い聞かせて、そういうことになった。こういう時に逆らえないのが博雅という男だ。どうしてもと言われると断れなかった。
二人で外に出掛けることになった。
何故こうなったのか、と博雅は思う。
部屋にあるジャケットを持って来ると言って保憲を玄関に残してその場凌ぎに逃げ出したが、遅くなるとまた保憲が来るような気もして落ち着かない。
スマートフォンを見てみるが、あれから晴明からの連絡は無い。
ちぇっ。
自分は晴明にとってはどうでもいいらしい、と博雅はむっとした。あんな風に一方的に通話が切られたら心配するのが普通だろう、というのが博雅の言い分だ。
ちぇっ。
開けたままだった窓を閉めようとサッシに手を掛けた。
ああ、桜だ。桜は悲しいくらい美しい。
ひらり、はらり。
くるくる、ひらり。
泉から湧き出るように桜の花が散って行く。
「はあ。これを見に来たんだよなあ」
博雅は一人呟いた。
晴明の仕事の都合で一番の見頃にはとうとう二人は会えなかった。晴明がいなくとも庭を眺めて桜を楽しめれば構わないと思っていたが、それは違った。
強がりだった。
桜の儚く散るのを見ていると自分の正直な気持ちを思い知る。
今日こそはと思ってここへ来たのだ。
それは例えばこんな風に。
晴明と二人で、何を話すともなく桜を眺める。博雅が時々溜め息を吐いては、晴明が酒で唇を濡らす。取り留めのない独り言が桜と一緒に零れ落ちる。
それだけ。
それで良かった。
博雅は名残惜しむように窓を閉めてその部屋を後にした。
博雅は、春は別れの季節、と思った。
靴を履いて玄関に立って待ってくれていた保憲は博雅を見るとにこりと笑った。大きい体に似合わず笑顔はとても穏やかだ。
「じゃあ、出ますか」
博雅が言うと保憲は「うん」と頷いた。
保憲は、人間的には、晴明より遥かにずっと素晴らしい人だと思う。ちょっと怖いような気がすることもあるけれど、晴明のサディズムに比べれば幾分かましだろう。
博雅はそんなことを考えながら靴紐を結んでいた。
靴紐を結ぶ博雅のすぐ近くに立つ保憲には、玄関のドアを開く少し前、とある勘が働いた。
少し残念な、でもとても愉快な。
「保憲さん?」
ドアの前に立って進もうとしない保憲を、博雅は不思議に見上げた。博雅からは保憲の大きな背中が見えている。
猫だ。
博雅はそのことに気付いた。
猫が居ない。
気付いてそれを指摘しようとしたら、なんと向こうから勝手にドアが開いた。
「晴明……」
現れたのは晴明だった。涼やかに微笑んで「もう帰るところでしたか」と尋ねられたので、博雅は漸くそれが夢や幻覚でないと思えた。
「博雅が居たから上がらせてもらってたんだ。これから二人でお茶でもしようかと話していたところなんだよ」
保憲にはなんとなく分かっていた。
晴明が現れる予感がしていた。
それが現実となっただけ。
保憲は博雅の頭に手を置いた。落ち着きがあってのんびりしている保憲は実際の年齢より年上に見られることが多く、博雅と並ぶと仲の良い甥っ子を可愛いがる親戚のようだ。博雅にもそんな風に思えたので特に嫌な感じはしなかった。
晴明は二人を見て、おや、と目を細めた。
「嫉妬させますね。お二人は随分と仲良くなったらしい」
博雅は「えっ」と声に出して驚いた。
嫉妬?
晴明が?
「いや」、と思わず口に出してから、博雅は言い淀んだ。否定するべきことではないと思い直したからだ。
「からかうなよ。保憲さんは、お前に用事があったんだよ。俺はもう帰るから二人でゆっくり話して良いよ。あと、あの桜、綺麗だな。たくさん見させてもらった。ありがとう」
博雅はそう言って足早に立ち去った。
せっかく晴明が来たのに。俺はばかな男だ。詰まらない男だ。
博雅は自己嫌悪した。
ちぇっ。
博雅は歩みを遅めて空を見上げてみた。青空は淡くて曖昧で、どんな独り言も吸い込んでくれそうに思えた。
「ちぇっ」
口に出して言うと、冗談めいておかしくなった。
【待つ者と追う者】