彼の瞳に映ることが、俺の夢見てきた現実。
「あなたはご存じですか。私があなたの言葉なら、全て、あなたの言葉であるというだけの理由で信じることを。あなたの与えるものなら全て、快楽に感じるエゴイズムを、理解できますか」
「……それがエゴそのものだってことは分かるよ」
「あなたを解放することは容易い」
「……」
「あなたの言葉のままにその拘束具を外しみすみす手放せば、私は必ず罰を受けます。容赦も加減もない、苦痛そのものみたいな罰です」
「……」
「それでもあなたは言いますか」
「……」
「セシカ。ねえ、セシカ」
逃げないで、とまでは言えなかった。
セシカは押し黙って、不機嫌そうな顔をした。
「私がここにいる間だけなら」と彼の拘束衣を脱がしたけれど、こういったものに大した意味の無いことは、私たちが一番分かっている。
「すみません。ここの誰だってもうあなたを失いたくないんです」
「失う前に、あんたらのモノじゃねえから」
「……そうですね」
「……」
カチャリと扉の開く音がした。正確には、閉じる音だったのだけれど。
「ああ、あ、セシカ。セシカだね」
声の主はセネカだった。
白濁の純真を持つロスにも人の心はあるのだろうか。愛着や慈悲や同情を感じる、真っ当な人としての心はあるのだろうか。
「これから人に会う」
「はい」
「……席を外せ」
「嫌です」
「……」
「俺に隠れて誰と会うんですかー?」
「後輩」
「学院の?」
「仕事の」
「じゃあいいじゃないですかー。恭博さんの大切な後輩ですから、俺も変なことしませんよー」
それでそのままアキを呼んだ俺にも責任はあるのだろうけれど。
ロスは本質的には俺に興味なんてない。だから俺の仕事やプライベートを知っても、他人に話したり仕事に利用したりはしないと分かる。
だいたい俺とのやり取りの半分も憶えていないんじゃないか。
執着するという行為を演じて愉しんで、それだけのことだ。笑顔の奥には何もない。
「ああいう子が好みなんですかー?」
「はい?」
「わざわざ拾って育てて、ちょっと怪しいなー」
「……」
「あ、恭博さんと会わない間にたくさんいい能力見付けたんですよ」
「……」
「誰か『器』があればいつでも『組み換え』ますよ」
「…それは有り難い」
またどこへでも消えればいい。
恭博さんに送ってもらった後はきっちり尾行し宿を調べ、朝には笑顔で出迎える。嫌な顔をされると少し嬉しく思える理由は自分にも分からない。
「おはようございまーす。出迎え狼です」
「……」
「今日は一段と不機嫌ですねー」
「……いや、うん。お前、仕事は?」
「自由業なので」
いくら笑っても彼は応えてくれない。
『好きな人に嫌われるって、どういう気持ち?』
好きも嫌いもないんじゃないかな。それは恭博さんが俺を嫌悪するのと同じかそれ以上に、実は無関心なのとは対照に。
手放せば綺麗に消えてなくなる。
恭博さんは間違うし弱いし優しいし横暴だし我が儘だし健気だし実直だし、何より平凡だ。俺もかつてそうだったけれど、彼の平凡さは彼が自分で生み出したものだ。埋没することを切望している彼が作り上げた自己像だ。
何にも拘泥しないのは自己防衛。
そうであれたらと何度となく思った。恭博さんの生き方に憧れて。
ひどく切なくて堪えられなかった。
三谷はリュウの兄弟らしい。それが血縁関係を意味しないことは確かだけど、だからとなんの兄弟なんですかとは尋ねられないでいた。
「だいたい恭博さんとロスが知り合いってどういうことだよ」
ロスはリュウの恩人で、恭博さんは俺の恩人。
恩人どうしが知り合いで、俺とリュウは従兄弟みたいだと少し嬉しく思ったことは置いておいて、リュウはこのことを知っているのだろうか。
「リュウと従兄弟ならその兄弟の三谷とも従兄弟ってこと…?」
リュウは知っているのだろうか。
あまり嬉しくもない仮定に嫌気がさしたところで、声をかけられた。
「邪魔よ」
「ああ、ごめん」
少し低くて、けれど落ち着く声だった。
気になった理由はそれだけではないと思う。例えば黒くてしなやかな髪が心のどこかを絡めとった。
「これから教練に行くの?」
声をかけると煩わしそうに顰める。
「……そうだけど」
「なんだ、残念。俺はアキ。お姉さんの名前は?」
「……」
「えっ、ちょっと…!」
白けた顔でどんどん俺から離れていく彼女は毅然としていて優美だった。
「……ナンパのつもり?」
「ただ友達になりたいなってだけだよ」
「リノ。私の名前」
「リノは何回生?」
「…修士1年」
「じゃあ俺よりずっと上かも。ねえ、今日の夜って空いてる?」
「ええ」
「一緒に食べない?」
「……嫌よ」
「先約がある?」
「……」
「ねえ、いいじゃん。ちょっと遊ぶだけだって考えてくれればいいし」
最後の一押しとばかりに「ね、今夜」と下から覗き込むと、笑顔が見えた。それはリュウやロスのそれように艶やかで、どきりとした。
「遊びには興味がないわ」
彼女を追い掛ける度胸は、なかった。
自分で食っていける仕事に就けたことは間違いなく俺の救いだ。それがどんな仕事でも。
『世界を愛するテロリストなんているかよ』
あの日、ルートはそう吐き捨てた。間違いでもないから適当に頷いた。
昔から俺は、彼が憎いテロリストをも抱き込んで、世界を平和にしてくれる気がしていた。俺は自分が破滅するその日を夢見ていた。
世界を愛したのは、君だろう。
子どもだった俺たちには生きることよりも死ぬことの方がずっと魅力的で、それを歯を食いしばって否定するルートは憧れだった。強くて乱暴で優しくて、ヒーローはこうして生まれるのだなと思った。
手を伸ばすと必ず届く位置にいる。
俺が冷酷で非情で人間不信の気違いだと彼は知っている。それでも彼は俺を見捨てない。
どんな生まれでも仕事さえこなせば認めてくれる世界で、非情であればある程俺は成功していった。
『一緒に棲むか。養ってやるよ』
ルートの優しさに甘えられるだけの強さはなかったから、軽蔑されたとしても良かった。テロリストになった俺を、ルートはそれでも認めてくれたから。
君に愛されたかった。
渾身の力で殴り飛ばされ、踏み躙られ、引き裂かれ、噛み砕かれたかった。
君を愛したかった。
チーフに呼ばれて行くと、リュウがいた。
「これは何」
「俺が入れた」
「そんなことは分かってる」
「……ケントが拾ってきたんだよ。そいつが男か女かも分からない」
空気で分かる。チーフは怒ってる。
「……」
チーフは床で小さくなっているリュウを冷たく見下すと、「それくらいはすぐに確認できる」と小さく言ってリュウの服を剥いだ。無抵抗の少年は、やはり少年だった。
顕わになった筋張った身体には無数の傷痕がありリュウをひ弱に見せる。
痛々しい。
「止めてくれ」
「……」
「俺の前でそういうことを、するな」
空気で分かる。
「……馬鹿は嫌いだよ」
でも、怒りたいのは俺の方だ。
苦しくて辛くて悲しくて、けれどそれを誰にも言えない時。心底寂しくて誰でもいいから人間が好きだと実感したい時。そう叫びたくても空気が肺に沈んだまま何も話せない時。そういう瞬間に一番近くで「好きだよ」って囁かれ続けたら、こっちも好きになるよ。当然だろう。
障害物だらけで後ろめたさだらけで、必死に隠してる傍で「愛してる」って公言されたら、好きになるよ。
好きになったよ。
見放される前に手に入れたかった。見限られる前に感触を覚えたかった。諦められる前に、諦めるのは早いって言えるくらいには思いやりがあればよかった。
「好きだなあ」
「……」
「たぶん愛してる」
「……」
「世界で一番好きだなあ」
「…うん」
「はは。君と別れて新しい恋人ができても、同じことは言えないな」
「……」
「愛してる。一番好き」
「……」
「好きー」
「…うん」
どうして面倒だと思ったんだろう。