今ソファーでパズルをやっているアキは見た目はただの小さな子どもで、初めて彼を見た時にも適格者だと俄には信じられなかった。ユーリがその小さな子どもを信頼して仕事に起用するのかどうかも疑わしかった。
「……」
ただのパズルに夢中な子ども。
私は能力はほとんど発動できないから本当のところ彼らのことは雲の上の人間のようにも思っていた。
ユーリはクロックスを使えるらしいけれど職業上の能力者は別物だ。中でも適格者などはもっと得体が知れないし、私たちのことなど簡単に殺してしまえる存在だと言われている。
例えばアキが命じればこの部屋は真空になってしまう。
そして私は死ぬ。
けれど目の前にいるのはただの子どもだった。
時間はもう夜になり窓の外は真っ暗だ。そろそろ寮に帰した方が良いかと思ってアキの肩を叩こうとした瞬間、バタバタと廊下が騒がしくなった。
「エトー」
アキは顔を上げると直ぐにその声がユーリのものだと気付いたらしい。扉が開かれたと同時にアキはそこにいる人間に駆け寄った。
ユーリは男に抱かれていた。
「こんばんは」
「…どうも。なあユーリ、ここはお前の部屋じゃないの?」
「ん〜?」
男はユーリに囁くと優しく口付けた。ユーリは相当酔っているらしいが悪い酔い方はしておらず気分の良さそうな顔をしている。
寝室は全く違う場所にあるが私に顔を見せるために態と客間に足を運ばせたのかもしれない。
「寝室はあちらですよ。こちらからどうぞ」
私が案内する間アキは呆然としていた。
教育に悪いだろうか。
「ラゼル、違う」
「何?」
「こっちにオモチャは無いよ」
「……」
ユーリはゆっくり男の顔を撫でた。
つまりそういうことをする道具のある部屋でそういうことをしようということらしい。男はユーリの綺麗な顔を見下ろしてうっとりと赤面した。
私はユーリの言葉を思い出す。
『こういうのはセックスじゃなくて、遊びって言うんだよ』
入れないし、入れさせない。
出しても抜いても遊びでしかない。
「申し訳ありません。こちらからどうぞ」
私は丁寧に彼らを案内した。その部屋に辿り着くと男は興奮を高めたようにまた深くユーリに口付けた。嫌な音が耳に付いて私は顔を逸らした。
「エトー」
「はい」
「お前も一緒に遊ぶ?」
「…いいえ。アキが来ていらっしゃるので」
「アキ?」
ユーリは男から下りるとこちらを見た。
開けたドレスを見ないようにして私は平静を装う。努めて冷静に笑みさえ浮かべて、それは仕事の時のそれ以上に徹底的に本心を頓隠して。
「客間にいらしてます。もうお帰りになる時間ですが、」
「早く言ってよ」
ユーリは不機嫌な声でそう言った。
ユーリのことは分からないことが多過ぎる。素養も能力も余りに違い過ぎて理解できない。向こうは私のことならほんの些細な機微まで感じ取ってしまうのに私の方は今聞こえる大きな溜め息の理由さえ分からない。
「申し訳ありません」
あなたに呆れられると泣きそうになる。
「……ラゼル、少しだけ一人で楽しんでいて」
「え、なんで」
「此処にある物は好きに使っていいから、貴方の身体の準備だってあるでしょう?」
「戻って来るんだよな?」
「勿論」
男はそれ以上は引き留めなかった。
静かな廊下にユーリの靴の音が響く。それは時間を刻むように正確で数論を愛するユーリらしくて、私は昔からいつもその音を追って生きてきた。
「……」
客間の扉を開くとまだアキはソファーで寛いでいた。
肘掛けに乗る脚は細い。
「イイことしてきたの?」
その声音は多少大人っぽくても声そのものの幼さは隠せない。適格者の強大な力が彼らをどれだけ試練に晒しているのだとしても不自然に成長の止まったその身体は私たちの知る摂理を軽々しく超越してしまうから空恐ろしい。
畏怖する。
このただの少年を、私みたいな平凡な人間は畏怖する。
「阿呆。来るなら事前に言いな」
ユーリは親しげに笑ってアキのいるソファーに腰掛けた。私の手渡した毛布を膝に掛けて、アキの頭をそっと撫でた。
「言っても忘れるでしょ」
「ユーリが忘れない。でしょう?」
私は笑って頷く。
「やっぱ忘れるのかよ」
「私にはそういうことは必要ないからね。エトーはそのためにいるの」
ユーリは私を置いて遠くへ向かう。
私はユーリを追って追い掛けて自分のできることを必死に探して提示する。それがユーリのスケジュール管理だけだとユーリが言うならそれは正しいのだろう。
正しい。
「……」
するとアキが起き上がってユーリの方へ手を伸ばした。青いその生地を触るのを止めようとして思い留まった。
私の仕事ではない。
「なんだ?」
ユーリは妖しく笑んでアキを見た。「エトーの前で、」と言いかけたのをアキは大袈裟に溜め息を吐いてみせてから遮る。
「ファスナー下ろして誘っても、気付かない男もいるって知ってる?」
ユーリはくすりと笑った。
「大きなお世話」
私は品のない自分を恥じたと同時にアキの言葉の意味を考えた。その『男』はアキのことなのか、ラゼルのことなのか、或は他の誰かのことなのか。
アキとユーリは楽しげに幾つか言葉を交わしながら玄関へ向かった。
「恭博さんは、また変な仕事してるみたいです」
「ああ、そう」
「……」
「悪いけど恭博さんとは最近仕事してないの。そもそも彼だって誇りを持って仕事してるんだから、私が色々言うのは間違っているしね」
「でも恭博さんはお金のために働いてるんだ」
「……君はまだ若いね」
「はい?」
「そんな気持ちは50年も働けば消える」
「……」
「私はギャンブルはするけど真っ当な仕事しかしない。恭博さんはギャンブルはしないけど堅気の仕事もしない。なんでか考えても分からないなら働くことね」
ユーリはにっこりと笑って手をひらひらと振った。扉に凭れて気怠げに、けれど顔は心底楽しげに。
アキは少し考える素振りを見せたけれどすぐに笑顔になった。
「年寄りぶるなよ。ユーリは綺麗だよ」
見当違いにも思える返答を、けれどユーリは喜んだ。
これからユーリがラゼルのところへ行って不健全な行為に耽っても私には咎められない。手を貸すことすらあるのに心ではそれを拒否している。
それをユーリは絶対に知っている。
「またおいで」
ユーリは最後にそれだけ言って扉を閉めた。
私は笑う。
結婚したら後悔してきっと直ぐに別れてしまうのに私はいつまでも結婚願望を持っている。ユーリが気まぐれに私を振り返るのを歓迎してそうでない時の嫉妬を箱の中に押し込めている。
適格者と平然と接するユーリは、けれどやはり私とは違う世界の人間なのかもしれない。
「ファスナー、気付けなくて申し訳ありませんでした」
「興味がなくて見ていなかったんでしょう」
「…いいえ」
嫉妬する自分が怖くて、見られなかっただけです。
ユーリは規則正しい音を立てて廊下を歩く。辿り着く部屋にはラゼルが待っているのにユーリは少しも乱れず歩く。
「面白くない男」
そうごく小さく呟いたユーリを私は無視した。