ピノが神だからクレアが天使だと思ったわけではない。
「お前の好きな証明問題じゃん」
「まあ、そうなんですけど」
「これはなー、ここの変形が違う」
「え、あ」
「あとは完璧。もう解けるんじゃね」
「……ありがとうございます」
「いーえ」
綺麗なものだけを見て、綺麗なものだけに触れて生きてきたに違いない。
世間知らずとは違う。
白くてつるんとした指先には形のいい爪があり、自分で切ったことのなかったらしいそれを今はやすりで削って短くしている。姿勢よく座るクレアのその指先から生まれる数式は、小さな少年の容姿からすると豪快でどこかミスマッチな気がするけれど、彼の本質はそういう隠れた強さにある。
一見か弱そうなのに、芯があって頑固。
「できた」
「おー。すげえじゃん」
「……」
褒められたのにどこか面白くなさそうなのは、俺に手助けされたからだろう。
俺は時々こういう意地悪をする。
優位に立てなくてもいい。尊敬され頼られなくてもいい。笑いかけてくれるならそれでいい。けれど、それではクレアに見透かされてしまう。
ただ連むだけの関係は望まないだろう。
クレアはピノに可愛がられて生きてきた。愛情をたっぷり注がれ、全力で守られてきた。
彼はそういうピノを見ている。
衆愚としてにべもなく忘れられてしまう前に、軽薄さを見透かされてしまう前に、この祈るような想いを知られてしまう前に、だから彼に意地悪をして、せめて俺に屈する屈辱を刻み付ける。
「まだ分かんねえ問題あるんじゃねえの」
「……」
「俺が優しく教えてやるよ」
次の問題に取り掛かるクレアの顔は、笑っていた。
「ジャックが一番、俺に甘いね」
それはどうしても、天使に見えた。
演習を受け持つことになった時に、少しは覚悟した。
覚悟はしたけれど、それと平気は違う。
授業の後、ピノと仲良くするノイを見て、あの頃と変わらない、醜悪な感情を抱いた。冷たくてじめじめとして陰欝な、熱っぽく湧き上がる激情。
抱き締めたい。縛り付けたい。
別れるとか別れないとかいう関係ではなかったのに言葉面を追って見切りを付けた。
これは後悔ではない。
劣等な妄執だ。
本当にノイが私を忘れられるとは思わなかった。翌日になれば足元で哀願すると思った。それを赦すだけだと思った。
それで元通り。
もしくは、前より一層。
結婚、したいと思った。
ピノとウェンスが近付くのを、最早止められそうになかった。
お前を守りたいだけなのに。
体育の時、見学するウェンスのところにどうしても行けなかった。何かを切望するようなウェンスの顔を見てから、見ないようにすらしていた。
「…笑ってる……」
思わず声が漏れたことに、俺は気付かなかった。
ピノにはタブーがない。というよりピノ自身が不可侵だから、誰も彼を拒めないのだ。
何度拒否されても叱責されてもウェンスの傍から離れたりはしなかった。摂食障害だろうが精神の不安定さだろうが、それを理由に彼を諦めたりはしなかった。
俺は、救いたかった。
けれど、唯一つ、俺が触れられなかったウェンスが、それこそが彼の核心だったとしたら。それにピノだけが容易く接触し、受容されたとしたら。
体育を見学するウェンスの横で、ピノが壮快に笑う。
そして細やかにウェンスが笑う。
俺が、救いたかった。
「ちょっとマガジン見てくる」
「あの。先生これだけですか?」
「君も好きなオイル選びなさい」
「……」
カゴにはビールと果物の缶詰と梨が入っているだけだ。レルムは何か考えるような顔で黙ったから、さっさと売り場を離れた。
彼が俺を好きだなんて、馬鹿らしい。
品揃えの悪いマガジンラックを眺めてそう自嘲した。俺は彼に親近感や仲間意識を感じているけれどレルムがそう感じることはない。分かっている。
分かっていないのは向こうだ。
EPだとか、アンドロイドだとか、俺みたいなものだとか、世界から弾かれて遊離している方がずっと正しいのだとしてもそれは悲しい。迫害されなくても疎外されてしまうなら同じだ。
機械は冷たい。
レルムは冷たい。
でもレルムといると暖かい。
俺が生み出してきたあらゆる人工生命よりずっとレルムの方が人間だった。
「先生」
「……ん?」
「食事はいいんですか」
「何か欲しい?」
「僕、何か買ってきますね」
「……」
先生にもらっているお小遣を持って、コートを羽織る。僕は暗号に夢中らしい彼の後ろに立って「ちょっと出ます」と告げた。
返事はない。
代わりに後ろ手に腕を掴まれた。
「……あの、」
「少し待ちなさい」
片手でベッドに広がるものを整理しながら、もう片方の手は僕を放さなかった。むしろ少し引っ張られて先生にくっついてしまう。
「……」
細い背中に寄り掛かり、肩越しに覗く。
メモには先生らしい神経質な文字が並んでいて、僕は笑った。神経質だけど、曲がってなくて、野良猫のような、高級な飼い猫のような。
「……笑った?」
「はい」
「なんで」
「数値がそう求めたからです」
「……そう」
「買い物、行きたいんですけど」
「……」
「先生一緒に来てくれるの?」
「……」
つむじの横にキスをした。
「君は、変わったね」
「そうでしょうか」
「退行してる」
「プログラムですから」
「……」
ベッドの縁に腰掛けた。
「好きな人に甘えようとすると退行するんです」
良平を呼び出したら、現れたのは京平だった。
「何やってんの」
「なんのことですか?」
「じゃあ私にキスしてよ」
「いいよ」
お腹を殴ると廊下に引っ張り出された。
小さい声で入れ替わってるんだと言われたけれど、信用できずに京平のクラスを覗くと良平がいた。本当に入れ替わっているらしい。
人気のない場所で詳しく説明された。
入れ替わるなんて馬鹿みたい。
「だからそう言ったじゃん…」
「信用できないのよ」
「ひどっ」
「てかバレるでしょう。こんなことして子どもじゃあるまいし」
「意外とバレないよ?」
「……」
良平は何も釈明しない。
「だから今日は俺の恋人ってことで」
良平「え!?」
「……」
「さっきみたいに軽くキスするだけならいいっしょ」
良平「え、え!?」
「……」
「今まではもっと色々してきたけど、冴は特別だからキスまで。ね」
「……そうね。キスまでなら、」
良平「ダメだろ! なんで!? さっきって何!?」
「……」
狼狽える良平を残して京平はクラスに戻っていった。
「朝来!?」
「……」
「キスしたの!?」
「……するわけないでしょう」
「え、え!?」
取り乱すとこも好きだなあ。
生きてる限り双子であり続ける。良平が朝来に惚れるまでは俺たちは全く同一の人間だった。同じことが存在証明だった。
人工的に生み出されたものだとしても。
幼稚園に入る頃に良平は俺を拒否するようになった。同じ服も同じ言葉遣いも拒否して同じ空間にいることも嫌った。好きなものを嫌いと言って綜悟さんに纏わり付くようになった。
今でも覚えている。
あの、自分の全てが否定される恐怖。
小学校に入学する前、本棚と勉強机を好きに選んでいいと言われた。俺は良平を横目に何度も見て彼がどれを欲しいか分かったから、それとは違うものを選んだ。
本当は俺も良平と同じものを気に入っていたのに。
部屋にそれらが届けられた日、俺はひどく後悔して良平の部屋に忍び込んで椅子に座っていた。良平が来ても無言でそこにいて、良平に呼ばれた親に色々言われるうちに泣いてしまい、最後には良平の机と交換することにまでなった。
『僕、京平のと取り替えてもいいですよ』
子どもだったんだろうなあ。
『京平のと違うものならなんでもいいです』
俺は朝まで泣いていた。
京平が同じ髪型にした時に俺はどうしようもなく愛しく感じた。やっぱり同じでないと、と強く思った。
京平が綜悟さんによくくっついて回るようになった時に俺は妬みや反感なんて欠片も感じず、むしろそれで当然だと思った。俺の好きなものは京平も好きで、俺が束縛するものは京平のものでもある。
特別なんてない。
最初に入れ替わることを考えたのも提案したのも俺たちのどちらでもなくどちらでもある。
「じゃ、『良平』、よろしく」
京平はニヤリと笑ってウィンクした。
はるか先輩はユカちゃんの彼氏のこと以来、何かと俺に構ってくれるようになった。態度がつれないのは悲しいけど、俺的にど真ん中の顔で見詰められると快感が走ることを発見してしまった。
「こんにちはー」
しかし問題なのは、はるか先輩がほとんど学校にいないこと。
「砺波じゃん。駒碕さんいないよ」
「またっすかー?」
「ハハ、俺だって駒碕さんてあんま見ないからねえ」
「高等部上がるのって試験あるんですよね?はるか先輩めっちゃ頭いいとか…?」
「いやー、まあ知らないけど違うと思うな」
「要領よくやったのか…」
「多分ねー」
あ、綜介さんだ。
「綜介さんっていつも寝てません?」
「ハハ、確かに」
綜介さんは秀才で顔が綺麗だからそこそこ有名だけれど、あまり話さないし何よりなぜか京平さんのガードがあって、女子の間では、声がかけにくいという難攻不落の人になっている。
確かに顔は綺麗。軽そうだけど上品な。
「今度綜介さん紹介して下さいよ」
「ああ?」
「合コンに来て頂こうかなって」
「紹介つか、ただのクラスメイトだわ」
「何もクッションないよりましですから」
「あそう?今起こそうか?」
「いえいえ!」
「……お前けっこう図々しいのに変なとこ几帳面よな」
「そうすか?」
「うーん。多分」
「人間としての一線ってヤツですよ」
「ばぁか」
はるか先輩のバカとはちょっと違うんだよなーと思ってしまった。
はあ、会いたい。
「じゃー、ありがとうございました」
「おぅまた来い」
「はい。遠慮しないです」
「ハハ」
天使に羽根があるって本当だろうなあ。
淳也君は思ったよりは平気そうだった。顔は悲惨になってるけど。
「あー!」
「……」
「はるか先輩お久しぶりでーす」
「どーも」
「あ、これユカちゃんの彼氏さんにヤられてもう大変だったんですよー」
「……」
「すっげー怖いの。先輩に忠告もらってたんですけど、よく考えたら逃げようがないってゆーね」
「そうね」
「痛くて2日間は寝込んでたんですけど、やっぱり痛いから病院行ったら脚と腕と肋骨で4ヶ所も骨折しててまじビビったわー」
「……」
「この辺とか引っ張られた時に抜けてハゲてんですよ。恥ずかしい!」
「……で、反省してるように見えないんだけど」
淳也君は心外だというように目を見張って答えた。
「してますよ!北高のユカちゃんは彼氏持ち!」
バカ。
「あんたシメたのはナミ高のユカの彼氏」
懲りろや。いい加減。
「えへ、まじすか」
死ね。
「ユカ」
「あー?」
「淳也君どうなったの」
「アハハ、あれねー、浩二がシメたっつってたからもう諦めた」
「……あっそ」
まあ、捕まるとは思ってたけど。
「淳也すっげー可愛かったんだけどねー」
「もう浮気ヤメろよ」
「浮気してねえよ!」
「してんだろ!」
「あれは浮気ってか遊んでるだけじゃーん?」
「……」
こういうのってお互い様なんだって分かってたけど、こいつら頭悪すぎて腹立つわ。
「でもそん時の浩二カッコヨくてぇ、ちょっと見直したんだぁ〜」
死ね。
「よかったねー」
「ヤッホー」
声は空から降ってきた。突然。
「誰すか」
「はるかでス」
「あー。…え?」
「え?」
「…いや、え、知り合い…?」
「うん、違うけど。まあちょっと顔貸せや」
口の悪い天使だと思った。
「…喜んで」
天使は高等部1年らしい。年上も悪くないけど、何より顔が断然好み。
「ナミ高の子と合コンした?」
「したかもしれませんねー」
「北高の子と合コンした?」
「かもねー」
「あんた予想以上にサイテー」
「かもねー」
ああ、天使。
「これからは学校の名前も気にしたら?」
「なんで? てか学校とか関係ないですよ。可愛けりゃいーの」
「そんな気持ちで最後までいっちゃうとこが信じらんない。ユカもバカ過ぎて同情する気になれないけど」
「えー?」
笑わないかな、天使。
「ユカのことも忘れてるんでしょ」
「…ユカちゃん……?」
「……」
「ボブカットの?」
「セミロング」
「…ヤンキーっぽい?」
「分かってねえだろ」
口悪いよ天使なのに。
「もっとヒントないと無理ですってー。てかそれが何?」
「あんたメール無視してる?」
「…全部返してたら切りがないですから」
「……」
「探します探しますよ…あ、これかな。野上由佳ちゃん?」
「喜多村由加よ」
「あ。あったあった」
「笑ってんじゃねえよ」
「…すみません」
天使、怖いよ。
「ナミ高のユカチャンは尻軽いけど純愛気取って彼氏束縛すんのが趣味なの」
「…はい?」
「ユカの彼氏がキレてあんたのこと探してる」
「……ああ」
「北高のユカチャンなら良かったんだけどねー」
「…え。どっちだっけ。野上ユカが…」
「北高」
「なーるほど」
「分かってねえだろ」
きゃん、口悪い。天使なのに。
「はるか先輩はユカちゃんと知り合いなんですか?」
「そーだよ」
「合コンとか来ないんですか?」
「…そういう友達じゃないから。遊んだりはするけど、合コンとか興味ない」
「んー、そっか」
極上スマイルを向けたつもりだけど、天使はやっぱり微笑みもしない。
「とにかく、忠告はしたから」
天使はきっぱりと言って屋上を後にした。
やばい可愛い。超タイプ。
「魚住くんのカレシは学校の人だと思うわ」
「…彼、俺の1コ下で、そんなに親しいわけではないので、」
「俺のが歳離れてるっつうの」
「……」
「お前ら同じ学校でこういう境遇なのに話さねえの?」
「突然仲良くなるのも変ですから」
「……あっそ」
感じわりい。
「……」
魚住くんはけっこうリアクション可愛いけど、たった1年でここまで擦れるもんかね。
じっとりと黙視していると風見くんは視線から逃れるように身をよじった。埃を払うように手でズボンの太ももあたりをはたいたけど、それも形だけだろう。
「綜悟さんダンテじゃなくてもいいのに、なんでここに飲みに来んだよ…」
「……」
「君の芹沢さんも、家で2人でゆっくりしてりゃいいのに」
「……」
「……なあ?」
一瞬だけ視線を外してもう一度見ると、風見くんと目があった。
「あなたには分からないんですよ」
「…は?」
「ここでしか会えない人がいることが、あなたには分からないんです」
「…は?」
「……」
怒ってんの?
「わけ分かんね」
「……同性愛者が嫌いですか?」
「…は?」
「見下してるの、分かるんですけど」
「……」
何を?
「自分は違うって高見の見物ですか。いいですね。こっちは『仲間』を探すのも大変。見付けても話しかけるのも大変。よく知りもしないで気楽に関わられるの、気分が悪いんですよ」
「…はあ?」
何卑屈になってんだよ。
「『あなたの』綜悟さんだって男とセックスしてるんですよ。分かります?」
「……」
「飲みたいとか一緒にいたいとか、誰もそんなレベルのこと求めてないと思いますよ。ダンテはそういう店ですから」
「……」
「自然に実る恋は有り得ない。あなたにはそういうの分からないんじゃないですか?」
「……」
恋なんてどれも自然には実らねえよ。
「そういう現実は避けて好きだのカレシだのそんな話しを面白がって、結局そういう世界と自分を切り離して安心したいんですか」
「……」
安心?
「俺たちが男同士でドキドキしてるの、そんなに楽しいですか?」
「……」
「こっちは不快で仕方ないんですけど」
ちょっと、さすがに、ムカつくわ。
「……」
安心?
「なんですか?」
安心?
「……」
安心?
「……」
それはあの時に捨てた。
「……」
世界で一番に守るべき人を殺したいと思った日に、切り捨てた。
「……」
安心?
「シメるぞ」
俺は芹沢さんが来ても、お子様エリアにいなければいけなくなった。京平さんが高校生だと分かってからピリピリしていて、魚住を連れてきた時は外へ放り出されてしまったくらいだった。
お子様エリアはなんと、店の2階のマスターの仮眠室なのだけれど。
「ここ来ても芹沢さんと会えないんだろ?」
「…下では、そうですね」
「来る意味あんの?」
京平さんは寝心地の悪そうな簡素なベッドに横になり上を見ながら話している。
京平さんはよくしゃべる。
「…芹沢さんは俺じゃなくてもここの人とはもともと仲良いですから、週末に時間気にせず飲めるならいいんじゃないですか?」
「じゃなくてお前。来る意味あんの?」
「…帰りは、一緒に帰れますから」
「同棲してんだっけ?」
「や、同棲!?」
「週末だけ通い妻かよすげえな」
「……」
「俺は綜悟さんと飲めなきゃ意味ねえ」
「……」
「最初だけかと思ったらネチネチしやがって…」
「まあ、未成年ですから」
「俺らに酒出さねえけどさ、マスター自分ときはぜってえ飲んでただろ」
「…どうですかね」
うぜーと零しながら、京平さんは何か思い出したように上体を起こした。ちらちらと見ていた俺は京平さんと目が合い、逸らせなくなってしまう。
「魚住くんと同中なんだろ?」
「…はい…?」
「こないだちょっと遊んじゃったよ」
「……」
「君、魚住くんのカレシ知ってる?」
「……」
京平さんは、ゲイが嫌い。
「俺ねー、相手は体育教師じゃねえかと思ってんだけど」
「当たり?」と俺の返事を促すように続けたので、「違うと思います」と答えた。京平さんは気にした風もなく笑った。
京平さんは俺たちに造作なく接近するけれど、心の中では鉄壁で守られた一線を引いている。そうして向こう側でこちらを軽蔑しているのだ。男が男を好きになるのを嗤っているのだ。
綜悟さんに執着しているのが、俺たちのそういうことと異質なのは、本人が一番分かってるだろう。
「体育の先生、50過ぎたおじいさんですよ」
それを聞いてから、京平さんはまた大きく笑った。
部室では利賀が黙々と詰め将棋をしていた。でかい図体を椅子に乗せ、手の平サイズの本を片手に。
「おっす」
「ああ、おはよう」
「俺が一番かと思ってキー取りに行ったわ」
「ごめん」
「いーけどね」
利賀は本から目を逸らさない。
入口近くにあるフックには部室の鍵が下がっていた。
暫くしてから他の連中も現れたので将棋を指した。勝負がついて雑談していると、切りのいいところでそれぞれ加わってくる。
こいつらみんな碁会所のオッサンみたいな雰囲気を醸し出してて、けっこう好き。
そしていずれそうなるんだろうな。
「数研て何やってんですか」
後輩が肘をついて手に顎を乗せて尋ねる。
「…算数」
「え。数学じゃなくてですか」
「ああ、数学もやるよ」
「……」
「拓海は数学やってるけど、俺分かんねーって言ったらドリル渡されて、やってる」
ドリル。
「アハハハハ!」
笑ったのは俺だけじゃなかった。利賀はそれを不思議そうに眺めている。
「ごめんなさいっ、で、でもドリルって…!」
「お前小学生かよ!」
「ドリル…!」
部員9名の内この場にいる7名は、利賀を除いて大爆笑だった。
きのうは紘平に意地悪をしたせいか、今朝はやけに清々しい気分だった。起きたら昼の12時を回っていたことに目をつぶれば最高。
昼間に電車に揺られながら座席でだらけるスーツの大人を見る度に、高校生っていいなと思う。
無断欠勤なんて許されないんだろうな。
午後の授業が始まっていたことには教室の扉を開けた時のみんなの視線で気付いた。クラスメイトは盛り上がって、教師すら笑って迎えてくれる。
「おーす」
そんなに俺が好きかよ。
知ってる知ってる。
席に着くと机から教科書を探す。隣にいる藤江が話しかけてくるけど適当に返事をしておいた。藤江は席が隣になってからやけに親しげで面白い。
留学すると決めた時、それを2年3年と延長した時、俺は帰ってくるのが億劫だった。この学校の空気が嫌いだった。初めて髪を染めた日の夜、埋没していく自分を裏切った夜、木之下さんにキスされた夜、この学校の人間とは決別するつもりだった。
そうできないのは情が湧いたからだ。
俺のこと好きなんだろ。
知ってる知ってる。
「蒔田くんて真面目ねー」
「そう、かな…」
「うんそう思うよ」
「…そう…」
蒔田は理科の課題をバリバリこなしながら愛想笑いにもなってない苦笑を見せる。俺が全く仕事をしないのを責めたりはしない。
「ね、俺、邪魔?」
静かに呟くと、彼は更に困ったように笑った。
「そんなことないよ」
蒔田はクラスでもこういう感じだ。誰にでもいい顔をする八方美人で特に女子に優しい。けれどどこか嘘っぽい。いつも静かで自分を殺すような笑い方をする。
怒ったりすること、ないんだろうなあ。
風紀の花岡さんとは仲いいらしいけど、馬鹿笑いする姿は想像できない。
「蒔田くんて好きな子いる?」
「……」
「えーどっちー?」
課題の上に手を置いて作業を妨げると、やや首を傾げて呟いた。
「…どっちだろう」
俺はその時の蒔田に場違いな色気を感じて思わず手を引っ込めた。すぐに作業を再開しない彼に返答はしたけれど、どこかぎこちなくなっていたと思う。
ビックリしたー。
リュウに初めて会った翌日、同じ教室に行くと彼は既にいた。怒っているでも詰まらなそうでもなく、まして嬉しそうでもない無表情をしている。
「こんにちは」
少しの無言の後、彼は「こんにちは」と返してくれた。
「……」
しかしそれきり何も話さない。
きのうは向こうから話してきたのに放置するなんて。そう思ったけれど、最後に引き止めたのは私の方なのだった。
「教えてくれないんですか?」
「まず、少し話そうか」
「はい?」
「原状回復以外にも能力を持ってるとか」
「……」
「もしくは原状回復が後から発現したとか」
「なんで」
「不自然だから」
「何が?」
「どの程度の能力者なのか、だいたいは分かるよ。アヤがそれなりの威力を持ってることも適性があることも分かる」
「……」
「何故そんなに不安定なのか、俺は原因を知りたい」
「……」
ほぼ初対面のリュウにこれだけ見透かされているのだから、教官も知っているのかもしれないなと思った。
「今日はこれで」
リュウはそんな言葉だけ残して、私には目もくれず部屋を出て行った。
「待って」
思わず発した言葉には自然と力が篭って、自分でも意識せずに『命令』していた。
危ない。
「……」
「原状回復?」
「……」
「危害を加えるつもりはないよ。俺はリュウ。その腕、治すよ」
「……」
シキからは水と一緒に原状回復も『譲り受け』ている。
袖が捲られて覗いている女の子の腕には無数の切り傷があり、彼女が精神的に病んでいなければ、原状回復の能力者が訓練で自分に付けてしまう傷だと思う。この部屋も、履歴や原状回復の教練用だろう。
病んでいないと断言するには、彼女は病的だけれど。
「…それで試そうか」
俺は机にある粘土を叩き潰してから、原状回復を使って戻して見せた。
それで安心したのか、俺が近寄っても抵抗しなくなる。
「何回生ですか」
「実践1年。君は?」
「…基礎4年です。あの、なんで原状回復使えるんですか」
「え?」
「ループは少ないから応用までの人なら見たことくらいあります。実践で留年してるようには見えませんから、去年は応用にいたはずですよね」
「……」
「水で受けてるんですか」
傷跡がすっかり消えた腕を触りながら、女の子は俺を見上げる。
「名前教えて」
「はい?」
「……」
「……アヤです」
「よろしく、アヤ」
「……」
細い指が、髪を触る。
「教えようか」
「……何をですか」
「原状回復。教練まともに出てないんだろ」
「……」
「怖い?」
大きな瞳が、静止する。
「……」
「……悪い。変なこと言ったな」
「お大事に」と言って扉から出ようとすると、今度はアヤが引き止めた。怒っているような響きがした。
「お願いします」
頭が下げられる。
アヤは小さくて細くてゆらゆら揺れて消えていく。そういう幻に思えた。
「はいはい、いま出ますよっと」
朝からお役所に電話をかけてくる人間っていうのは同業かクレーマーか適格候補者と相場が決まってる。
「お待たせ致しました。司書庁です」
「…あの、そちらで適格者の紹介とか、されてたり、しませんか…」
「申し訳ございません。そういったことは行っておりません」
「…あ、はい。ありがとうございました」
当たり。
「何かお悩みですか?」
「……」
「もしかして、最適化しようとしているとか」
「……」
「なんの能力ですか? よろしければ、私の個人的な知り合いなら、ご紹介できるかもしれません」
「……」
「あの、もしもし?」
「あ、はい。あの、ザクトリーです」
「……」
手紙の適格者は5人。うち司書官吏が3人。
「すみません、やっぱり、」
「いえ! あの、私じゃダメですか?」
「……何がですか」
「私、手紙の適格者なので」
「……」
「あの、そうでなくても司書庁では適格者を把握する為に職員が一人ひとりの方を直接伺うことになっています。適格者を増やすことも業務に含まれますので、その候補者ということならぜひお会いして、質問等があればお答えしますよ」
「……」
「差し支えなければ、お会いしませんか」
暫くすると、お願いします、と聞こえた。