そんな笑顔なら無くていい。
僕といる時に慧弥先輩はほとんど笑わなくて、漸く笑ってくれたと思ったら上辺だけの作り物だった。綺麗で繊細で上等だけど僕には不釣り合いな。
僕が泣きそうなのに気付いたかな。
「あの時は、」
「もういいよ」
「…あの時は、先輩のことよく知りませんでしたから」
「よく知らない人の方がいいの?」
「違う! 先輩は分かってない!」
「何が違うの? ねえ、聞いたよ。魚住は誰とでもキスとかその先のこととかしちゃうような子なんだよね?」
「……!!」
「可愛い反応してたのに全部演技だったなんて、これはけっこうショックだよ」
「…せん、ぱい……」
取り戻せない過去が蝕む。
「でもこの話はお仕舞いにしよう。僕がそれで良いって言ってるんだよ」
「そんなのっ、そんなのは違います!」
「だから何が」
「…っそれじゃ、恋人じゃないッ」
「……」
泣いたのは間違いなく僕が慧弥先輩を好きになってしまったからだ。付き合おうって言ったのは先輩なのに、僕は片想いをして届かない気持ちに胸が痛んだ。
「…遊びも、身体、だけの、関係も、もう、嫌、です…」
相変わらずの整った笑い顔は僕の何かを引き裂く。手に入れられないはずだったものに手を伸ばしたから業火に焼かれた。それでもただ手放すよりはいい。
「自分勝手なこと言うね」
もう笑ってくれなくてもいい。嘘なら甘い愛の言葉なんて要らない。詰られてもそれが本音なら受け止めるから。
「好きです。好きだからです」
僕みたいな人間を好きにならなくてもいいから先輩の本当の心を見せて。
「僕も。魚住のこと好きだよ」
「……」
「だから黙って付き合おう。お前がそういうことこれからはしないって言ってくれたら信じるから」
「……」
「ねえ、もうしないって言って」
そんなこと、笑って言わないで欲しい。
「言えばいいんですか」
「うん。だから言ってよ」
頬を撫でた指は僕の涙を拭わなかった。
「もう、しません」
慧弥先輩は僕の胸倉を掴むと脚で近くの椅子を蹴り飛ばした。それは大きな音を立てて周囲の椅子や机を巻き添えにする。
突然のことに混乱して小さな叫び声だけが出たけれど、床に押し倒された衝撃にそれすら掻き消された。身体全体に鈍い痛み。バランスを取ろうとして無闇に差し出した腕は宙を掻いて机に打ちつけられる。
慧弥先輩はまだ笑っていた。
「ねえ、魚住。僕は口約束は嫌いだよ」
それだけ言うとキスをされた。意味が分からなくて先輩を押し返そうとしたけれど駄目だった。細いとは言え僕よりずっと身長があって重力を借りる先輩には及ばない。
丸で暴力的な状況が怖くて抵抗を続けたけれど、乱暴で濃厚なキスは止められなかった。逆に腕を抑えられてより悪い体勢になる。
少しも嬉しくない。
「…ッ!!」
「嫌なの?」
僕は泣いていた。通じない気持ちに胸が痛んだからじゃない。目の前の男に恐怖を感じたからだ。
「…ひっ、う…」
「泣かないでよ。傷付くから」
「やだ…」
「じゃあ泣いてもいいや。続けるから」
「……!!」
ベルトのバックルに手を掛けられてから漸く声が漏れた。「やだ、やだ、やだ」と嗚咽交じりの稚拙な反抗しかできなかったけれど無いよりましだろう。
「奉仕するのとされるの、どっちがいい?」
「…や、やです…」
「きっと上手いんだろうね」
「……」
「慣れてるんだろう?」
「……」
「火守にもしたの?」
「して、ません」
悲しくて苦しくて涙が止まらなくて先輩の顔はよく見えなかったけれど、笑っているのは分かった。からかわれているのかな。馬鹿にされているのかな。
「……ジョークだよ」
「へ?」
慧弥先輩は場違いに軽やかに言った。女の子がめろめろになるようなウィンクでも付いてきそうな声音だった。
僕の腕を持って立ち上がらせると丁寧に背中の埃まで払ってくれた。ベルトを締め直して制服の乱れまで整える。最後にポケットから出したハンカチで口を拭ってくれ、にこりと笑った。
少しも嬉しくなかった。