午後7時、辺りはまだ明るい。
寮に届け物があったから仕事が終わってから寄ることにした。定期試験が近いので試験の準備さえ終えてしまえば授業の方はひと段落がついて、生徒達も自習に勤しんでいるのか放課後に時間を取られることもない。
最近はよく眠れる。
授業とか研究とか生徒達のことよりも、寮に行けばノイに会えるかもしれない、私にはその期待の方が確かにあった。
寮の扉を開くとノイはそこに居た。
内心の願望がノイに届いたようで嬉しい反面、丸で若い学生のように運命らしきものを感じた自分を恥じもした。
「せんせ、」
ノイが先に声を掛けてくれた。
「こんな時間に外出ですか」
これから校舎へ向かうというのは些か不自然だ。ノイの私服と思われる服装から判断すると私用で外出しようとしているらしいことが分かる。
私用ってなんだ。
ノイは私から逃げるように目を逸らした。
怪しい。
何か、あったな。
「待ちなさい」
ノイの針金のような腕を掴んだ。私の指が彼の腕周りを優に一周してしまえることが恐ろしい。
「どこへ行くのかな」
私は努めて笑顔で穏やか優しげに冷静に丁寧に柔らかに嫋やかに尋ねた積もりなのだけれど、ノイは私の手を振り払おうともがく。
細い腕は掴んでおくには丁度よかった。
簡単に手放す筈がない。
「暴れるな。縛り上げて欲しいの?」
「外に。行くだけです」
「散歩か。私も一緒に行きますよ」
「……」
ノイは私の目から逃げるように俯いてから小さな声で「はい」と答えた。私と居るのが嫌みたいに身体を少し遠ざけたから思わずノイを引き寄せた。
「絶対に、逃げるなよ」
ノイはそれには答えなかった。
ノイを扉の外に待たせて寮での用事を済ませると、思った通りと言えばその通り、期待を裏切られたと言えばそれもまた真実で、私はノイを縛っておかなかったことを後悔した。ノイは居なかった。
宿舎の裏に回ってみる。
居ない。
校舎の方へ歩いてみる。
居ない。
居ない。居ない。
寮に戻ってみる。
居ない。
やはり外か?
居ない。居ない。居ない居ない居ない。居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない。居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない。
なんでだ。
なんでだ!!
「せんせ、ごめん」
振り返るとノイがいた。
「……、どこに居たの?」
「ごめんなさい」
「来なさい」
「せんせ、ぼくは、」
なんだ。
なんて言い訳する積もりだ。
ノイは何時も私から逃げる。ノイは何処へでも逃げる。ノイはこのぐちゃぐちゃな世界を自由にくるくると動いて私の目の届かないところで泣いたり笑ったりしている。私が望む程にはノイは私を求めない。
沸点を越えた自覚はあった。
私は思い切りノイを叩いていた。
「来なさい」
ふらついたノイの腕を掴んで、そのまま倉庫へ引き摺って行く。ノイは「先生」「ごめんなさい」と小さな声で言うだけで身体では抵抗しなかった。
細い腕がその肩から外れてくれたら私も思い留まるのだろうか。
ノイが喚いて反抗すれば私の沸騰性の感情を鎮めることができるのだろうか。
倉庫は寄宿舎の敷地のうち、校舎寄りにある。かつては生徒を反省させる独房としての役割があったと噂があるくらいそれはひと気がなく陰気で薄暗い場所にある。
「ノイ、」
お前は酷いじゃないか。
嘘を吐いた。
「せんせ」
ノイが私を呼んだ。
「なんで居なくなったんだ。約束したのに。なんで逃げるんだ!」
ノイは「ごめんなさい」と言った。
私はノイをまた叩いた。
ああ、駄目だ。暴力は。
分かっているよ。お前が怯えていることも世の中には暴力で解決し得る問題の方が少ないことも。分かっているよ。言葉で伝えなければならないことも。
苦しい。
世界ががやがやと五月蝿いんだよ。外野の人間は何時でも好き勝手に野次を飛ばす。
なんて伝えれば良い?
何から言葉にすれば良い?
「先生」
「なんですか」
ノイは私をじっと見た。
「好き」
ノイの声は掠れて低い男の声だった。
私はこれだけノイに執心して乱暴してまで自分だけのものにしようとして独占したがっていたのに、驚くべきことにこの時初めて自分が男を好きになったことを自覚した。
愛撫したり舐めたり、それはノイに対する執着ではあったけれど愛だとは思っていなかった。
「ノイ。私が好き?」
ノイは微塵も躊躇しなかった。
「うん。今も、思ってる」
そうか。
分かったよ。
不器用な言葉でも話すことに不得手でもノイが私に言いたいことを素直に言うのは彼が私を好きだからだ。愛しているからだ。
では、私はどうだろう。
これまで恋人と呼んできた女達と同じようにノイのことを想っているだろうか。男のノイを好きになることがどういうことなのか理解しているだろうか。ノイが苦しんだり痛んだりしているのを愉しんで見ている私にノイを愛することができるだろうか。この煩雑な世界はノイを愛することを許すだろうか。
私はノイを見てみる。
痩身、蒼白、陰鬱、病的、健康を失った異様な容姿。
これは、私が招いたことだ。
ノイの愛を私が歪めた。
ノイの愛は、もしかしたら、或いは恐らく、或いは殆ど間違いなく、真実ではない偽りの愛かもしれない。
だからと言って私が彼に愛していないと言えるのだろうか。
“あれ”はただ虐げて愉悦していただけの行為だったから愛はないと今更言えるのだろうか。
許されない。
私にその資格は無い。
「もう、乱暴はしたくない。お前を苦しませたくない」
私が言うとノイは微かに頷いた。
「結婚、できないからさ。せめてもっと“よく”したいと思ってるんだ」
「うん」
「ノイ……」
私はノイを抱き締めた。
尖った骨が身体のあちこちを突き刺したけれど私は一層腕に力を込めた。ノイが「苦しい」と言うまで、私はノイを強く抱き締めていた。
【欺罔】