寒い、寒い。そう思いながら見上げた空は不気味に淀んだ冬空だった。濁った青は薄ら明るいのに黒を含んで重く街を覆っている。
スマートフォンで気温を確かめると、氷点下だった。
「なんであいつを選んだんだ」
貴之は私の腕を強く掴んだ。振り払えないくらい強い力で掴まれたのでちょっと痛い。
「私の勝手じゃん」
「ハァ?」
「貴之も勝手にやってたんだから、そんな風に言われたくない」
浮気されて放って置かれて私のことは少しも顧みられることがなかった。自然消滅するのかと思ったけれどそれも仕方ないと忘れる努力をしたら、最後には『ミサと付き合うからお前とは別れる』と言われた。
「真壁に捕られんのはムカつくんだよ」
何それ。
「そんなの貴之と一志の問題じゃん」
「てめぇの問題だろ」
「私は一志と付き合うだけじゃん」
「ぁあ!?」
貴之は更に力を込めた。
「痛いよ」
「頭いいからあいつがイイのかよ!」
貴之がバカなのは本当だ。
だけど、そもそも、別れると言ったのは貴之の方だし、そう言われて引き留める気にもならないくらい私を落胆させていたのは貴之の数々の行動だ。
「ホント、貴之ってバカ」
「なんだと!?」
「一志は確かにバカじゃないよね、貴之に比べたら。痛いから離してよ!」
貴之は私の腕を引いて私を抱き寄せた。
な、んで。
「お前が好きだ」
そんな風に言われたいと思っていた。冷めていくばかりの二人の関係が、また戻って欲しいと望んでいた。
でも、それは昔の話だ。
今は困る。
ちょっとは嬉しいと思ってしまうのだから、困る。
「離して!」
貴之を突き飛ばして距離を取ると、嫌なことに気付いてしまった。貴之の肩越しに一志が立っていた。そして私の視線を辿った貴之と一志の目が合った。
最悪じゃん、こんなの。
「真壁、」
「何してんの、二人で」
「なんでもない」
「眞弓にとっては男と抱き合うことがなんでもないことなの?」
「違う!」
見られてた。
一志はちらっと貴之を一瞥してから酷薄な笑みを浮かべて私を見た。
「元カレと浮気なんて、平凡過ぎて面白くないね」
一志は私に歩み寄って、しかしそれは飽くまで物理的な意味合いしか持っていなくて、彼のいつも笑っている目の奥には憎々しげな炎が見えた。
私の手首を取った一志の手は、貴之以上に強い力で私を連れ去った。
振られる。嫌われる。
私は覚悟して一志の後を歩いた。
曰く、“糾える縄”。
「ややや!」
誰かと思えば。
「門沢橋くんではありませんか!」
そういう貴女は桜屋敷さんではありませんか。
「実はねー、今日、本日、なんと」
「うん?」
「チカンされたのです!」
「はぁ?」
チカン?
置換、ちかん、チカン。
「その胸で?」
桜屋敷さんは絶句してから心肺能力の全てを尽くして絶叫した。それは僕の鼓膜を突き抜けてどこか遠くへ飛んで行った。
「ひんにゅうじゃあなぁぁぁぁああああああい!!!!!!」
曰く、“浅瀬に徒波”。
「センセーって、名前なんて言うの?」
「……ボルボロス。みんなはロスって呼んでる。君は?」
「なんであんなに嫌がったの?」
「え?」
「ダメだダメだって」
頭ごなしに否定していた。
押しに弱かったから俺は気軽に付け入れたけど友達に居たらすげえ面倒臭いと思う。あんだけ不信感が強いと、逆に詐欺師のいい鴨になったりするんだよな。
「ごめん」
謝られても、意味ないんだけど。
「あんま深く考えんなよ。たださ、ほんとに嫌な時はもっとちゃんと拒否しろ」
「そうだね」
「じゃなきゃ俺だって不愉快だ」
厭がられてるのに無理矢理付き合わせるのも嫌なもんだろ。世の中詰まんねえことだらけなのに、連むダチまで楽しくなければ生きてんのも下らねえ。
ロスはじっと俺を見た。
「君は、誠実なんだね」
ハァ!?
何、こいつ。宇宙人だったのか。地球人に擬態して俺たちをどうしようって言うんだ!?
「俺が誠実なら、」
「うん?」
俺が誠実なら鑑別所に入ったり24歳にも成ってセーラー服で男子校に転校したりしねーだろ!
俺が誠実なら、てめぇは宇宙人だ!
俺は勢いよく立ち上がった。
「俺はてめぇを『拒否』する!」
ロスは俺が廊下に飛び出すのを呆気に取られて見送った。
「コーヒーがいい?」
控え目にそう聞かれた。
静かな準備室にガタガタと音が響いて緊張感は全く無い。昔はセンコーもポリスも俺の敵だったから、あいつらと居る時はいつも神経を張り詰めていた。
コーヒー?
それも平和でいいのかもな。
「要らねーわ」
「あ、じゃあ、紅茶?」
センコーが「今、レモンティーしか無いけど……」と言いながらまだキャビネットを漁るので、俺は思わず「どっちも要らねえよ」と言った。
「自分の好きなもん飲めば?」
なんで俺なんかに聞くんだよ。
センコーは暫く動きを止めてから、「じゃあ、お茶で」と言った。その声は間が抜けた調子だったけど、悪いとは思わない。
へーわ。
そんな感じ。
事務長もコーヒーより日本茶が好きだった。ある時など差し出されたコーヒーカップを叩き割って日本茶を要求した程だ。あのバイオレンスなところは男らしくて憧れるけど、日本茶の良さについて俺は今でもよく分からない。
「君は、なんでそんな格好してるの?」
湯気の上がるお茶を2つ用意して、センコーは俺の正面に座った。
「セーラー服。好き?」
センコーは一瞬だけ俺を真っ直ぐ見て、すぐに視線を逸らした。顔が赤いところを見るとセーラー服が好きなことを隠しているのだろう。
「僕はそのそういうことは駄目なんだ」
「イイとかダメとかそればっか」
「でも、」
「イイだろ」
「や、」
「イイだろ」
俺が「何が悪いか言えんの?」と念を押すと、センコーは視線を左右に泳がせた。
「君って、ちょっとズルいよ」
「ハァ?」
「ズルい…」
意味分かんねー。
でも分かったことがある。
「結局、好きなんだろ?」
俺が笑って言うと、センコーは更に顔を赤くして俯いた。
耳まで真っ赤にして動揺する様はその辺の中坊と同レベルだ。それは凄くガキっぽくて可笑しいけれど、落ち着いて地味な見た目にスパイスを加えた。
「好きと言われて、君は、どうするの」
「ナニかあると思う?」
「……え」
「ナニかしたいの?」
センコーはお茶を飲もうと手を伸ばしたけれど、カタカタと揺れて上手く持ち上げられないようだった。
ほんと押しによえー。
俺は目の前の“へーわ”に笑った。
「いいか、ここから先が肝心だ」
浅見は眼光を鋭くした。
「ターゲットとは約4メートルの距離を確保して追尾する。なるべくターゲットの視界に入らないようにして、気配を消して、つける」
深見は続きを促すように相槌を打つ。
「この時に、絶対に気付かれたらいけない。分かるな」
浅見に熱い視線を送られた深見は、愛想よく頷いて見せた。気を良くした浅見は更なる熱弁を振るう。
「ターゲットが一人になる時を辛抱強く待つ。ターゲットのプライベートを害さず、しかしプライベートな空間に立ち入る」
浅見は、「そして」と言ってから大きく息を吸い込んだ。
深見は目を見開いて息を飲んだ。
「一気に、攻める」
浅見はそう端的に述べた。
深見は浅見の言葉にやや大袈裟に感心して見せる。その尊敬の眼差しは、キラキラと輝いて偽りであることを感じさせない。
しかし深見は知っていた。
浅見がこの手でした告白によって、恋が成就したことはない。
「浅い川も、深く渡れ」
深見は悟ったようにそう呟いた。
曰く、“浅い川も深く渡れ”。
兎我野は一枚の写真を睨んだ。写真の中の笑顔とは対照的に、その瞳には嫌悪と悔しさが映っている。
写真にはかつて共に働いた同僚が笑っていた。モデルのように細身で長身のその男は、兎我野の肩を優しく抱いていた。
「ああ、それ。内務に渡すんだっけ」
写真を覗き込んで言ったのは職場の先輩である難波だ。
「いや、仕分け頼まれて、こっちは棄てる分です」
「うちで保存すんの?」
「いえ、棄てます。資料になるやつは全部渡す決まりだし、そうじゃないものは、もう、」
「じゃあ俺が貰おうかな」
難波の目は悪戯を愉しむみたいに細められた。
「呪いにでも使うんですか」
「あはは、酷いな」
「呪いじゃなくても規則違反です」
兎我野の批難がましい視線から逃れるように、難波は兎我野の横に座った。
「お前、落ち込んでないの」
難波の言葉に兎我野は作業を止めて目を伏せた。
「最初は落ち込まないこともなかったんですけど。もう、今は、」
「なあんだ。慰め損なったな」
「謹慎中に色々考えたんですけど、復帰してからの方がラクです」
「仕事が慰めてくれたか」
兎我野は無理して少し笑った。
「あの時、難波さん、うちに来たじゃないですか」
「ああ、そうだっけ?」
「あれにはけっこう慰められましたよ」
難波は写真を攫った。その中にある兎我野の無邪気な笑顔は彼が見たことのないものだった。
「あいつは馬鹿だ」
「はい」
「俺は、今回の捜査で初めてお前に会ったから、こんな風に笑うお前も知らない」
難波は手にしていた写真をお座なりに放った。それはちょうど兎我野の前に落ちた。
「彼も分かってたと思うんです」
「分かってたらこんなことするか」
「します」
「だったらやっぱり馬鹿だ」
難波は苛立たし気に立ち上がった。
兎我野は写真を破いた。びりびりと紙が裂かれる音が会議室に響く。それがどうしてか滑稽な音だなと思って、兎我野は笑った。
「悪事は必ず暴かれる。それが彼の口癖だったんですよ」
兎我野は振り返ると、難波に強く睨まれていることに気付いた。犯罪を憎む正義の目だった。
「当然だ」
その声は兎我野の心を貫いた。
兎我野は知っていたはずのことを、ここで初めて気が付いたかのようにはっとした。
『悪事は必ず暴かれる』
それは難波がいる限りそうなのだ。
自明の理をそうたらしめるのは、今目の前にいるこの男に外ならない。
『悪事は必ず暴かれる』
兎我野はそのことを知った。
漸く理解した。
愛する男を見逃そうと思った瞬間が少しでもあったことが恐ろしくなった。
兎我野の目には涙が浮かんでいた。
曰く、“阿漕が浦に引く網”。
廊下を渡って階段を降りた。辺りは静かだった。ほんの少し前まで賑やかだった世界から人間がぱっと消えてしまったかのようだ。
学校は俺が居ないところで回っている。
くるくる回っている。
「タバコ……は、ねえのか」
俺は舌打ちした。たぶん神様に向けてやったのだと思う。
少なくともこのフロアに職員室がないことは分かった。他に覚えのある場所はない。授業が始まって生徒に聞くチャンスも逃してしまったので、俺は校舎を虱潰しに探すことにした。
足音がする。
そう気付いてから身を隠そうとして止めた。見付かった方が都合良いと思い直したからだ。
スーツのその男は教師に違いない。
「なあ!」
「……何やってんの、君」
「あんたのこと探してたんだよ」
「えーと?」
「ちょい教えて欲しいんだけど、」
俺が続けて職員室の場所を聞こうとしたら、慌てた様子で言葉を遮られた。
「待った、待った!」
「ァア?」
「僕はそういうの駄目。絶対駄目なの。ゴメン」
何が?
「『ダメ』って、そう突っ撥ねることねえだろ」
だいたい聞いてもねーのに。
「聞いちゃったら手遅れってこともあるの。僕って押されると弱いっていうか、」
「大丈夫だよ」
「駄目だよ。絶対、駄目」
「大丈夫だよ」
「いや、でも……」
「大丈夫だよ」とまた強く繰り返すと、センコーは困った顔で俺のことを見た。
「な?」
センコーは鳶色の瞳をふらふらと左右に揺らした。
「あの、いま準備室に行くところで、」
「じゃー付いてく」
「でも授業が、」
「元から次に間に合えばいいやって思ってた」
「でも、」
「他に理由あんの?」
ないよな?
と念を押した訳ではなかったけれど、センコーは「ないよ」と言って俺を準備室というところに連れて行った。
ほんとに押しによえー。
フツウの高校生に成りたい。
でもこの道で生きなければ死んでいたのだから、そんな望みは始めから破綻している。有り得ない。
携帯で時間を見ると、ちょうど切り替わるところだった。
お、ラッキー。
と思ったらチャイムが鳴った。
また授業をサボってしまった。