※ストレートカップル
『お兄ちゃん、なんで彼女紹介してくれないの?』
かつて妹はそう言った。
俺はその問いに答えられなかった。
先日、妹に彼氏ができた。彼の名前は上林くん。妹とは大学の同級生だそうだ。妹のGPS信号を目で追って、時々にやりと笑う、そういう男。
上林くんが妹を好きなことは一目瞭然で、俺にもその感情を隠すことなく堂々としている。堂々と、妹に恋をしている。
溜め息が漏れた。
俺とは違う。
こんな俺を知れば妹も上林くんも幻滅するだろう。
こんな俺を知れば、英里も。
英里は暫く前にうにに来て以来一度もうちに来ない。うちに来ないし連絡さえ寄越さない。だから俺はそれから一度も英里に会っていない。
俺はスマートフォンを見た。無意識だ。
上林くんみたいにGPSを使って英里を監視しようとは思わないけど英里が今何処に居るのかはとても気になる。
迷った俺は英里と連絡を取ってみることにした。
英里が病気で倒れている、という可能性だってあるから。英里の家族はもちろんのこと英里の勤めている会社にも知り合いがいないので英里に直接連絡をして確かめるしかない。
それにしては、送った言葉は「あした会える?」だった。
俺はそれから風呂に入って酒を飲んでニュースを見ながらダラダラしていた。
明日は休みだ。仕事はないし友人との約束もない。
さて、英里からの返事は?
スマートフォンはうんともすんとも言わずテーブルに横たわっている。
俺は英里の顔を思い出してみた。英里の笑顔は妹のようには綺麗ではないけど何とも言えない魅力がある。
英里と連絡先を交換した時、英里が俺を好きになってくれるとは思いもしなかった。あの日久しぶりに会った英里はすっかり大人だったけれど、出会った頃の面影が残っていたから安心した覚えがある。
その時、スマートフォンが鳴った。英里からの電話だった。電話越しに英里は、これからうちに来てもいいかと尋ねた。
「もちろん。俺はいつでも待ってるよ」
そう答えると英里は小さい声で「うん」と言った。
英里はいつも荷物が少ない。出掛ける時は小さいカバンに財布とハンカチと携帯と絆創膏と手帳と少しの化粧品だけを入れている。俺は英里のその小さいカバンが好きだ。そして英里がうちに泊まる時に『お泊まりセット』を用意してくるところが俺はもっと好きだ。
久しぶりに会った英里は小さいカバンを肩に掛けて手にはお泊まりセットを持っていた。
「なんか、久しぶりだよね」
英里がそう言って笑ったので、俺は強がって「そう?」と答えた。
「仕事?」
「ううん、さっきまで佐季と居た」
佐季さんは英里の大学時代の友達だ。英里と仲が良いらしく、しょっちゅう二人で会っている。俺がいなければ英里は佐季さんと結婚していたんじゃないか、とさえ思う。佐季さんは2年程前に結婚したので、その心配はなくなった。
俺が部屋の中へ進むと英里も後から付いて来た。
「佐季さん元気?」
「いや、うん。相変わらずかな。和沙と……」
「俺と、何?」
「じゃなくて、離婚したんだって」
「え、離婚? いつ?」
「今年の夏から別居してて、おととい離婚届出したの。てか、今佐季うちに居て。それで最近、和沙と会えなかったんだけど」
寝耳に水だ。
つい2日前のことじゃないか。
「大丈夫なの?」
英里は笑って「たぶんね」と答えた。
「今佐季さんと住んでるってこと?」
「え、うん。そうなるかな。同棲」
英里が楽しそうに言ったので俺は少しむっとした。
佐季さんのことは心配だけど、佐季さんのことよりずっと英里に興味があるし心配だし好きだし執着しているから当たり前だ。
「同棲?」
「そんな深刻な顔しないでよ。まさか嫉妬?」
その『まさか』だよ。
理由はある。ずっと前に英里は『他人と暮らすなんて簡単にはできない。恋人とだって同棲したくない』と話していたことがあるからだ。
しているじゃないか、同棲。
俺も泣きついて一人は寂しいとか言えば同棲させてもらえるのか?
「暫く佐季さんと暮らすの?」
英里は首を傾げて笑った。
「暮らすっていうか。あれって、甘えたいんじゃないのかなって思うんだよね。愛してるって言ってくれた人に、裏切られて、お金で縁を切られたんだよ。そんなことを、『よくあること』とか言いたくないからさ。だから佐季が大丈夫って言うまでは、甘やかす予定かな」
俺は浅はかな自分を恥じた。
英里はそういうひとだ。傷付いた人間を放っておけないひと。
佐季さんは傷付いたところを普段は他人に見せたりしないひとだから、英里のところに転がり込んできたのは余程のことなんだ。それを英里が突き放して見放す筈がない。
「ごめん。ねえ、英里」
「ん?」
「たぶん、知ってると思うけど。英里のこと、好きです。言ったことあったよね?」
英里はにこにこ笑ったまま、「え?」と言った。
英里が俺を好きだと言ってくれた時、俺は却って怖くなった。
余りに嬉しくて英里の言葉を嘘だとか冗談だとか考えようとしても俺の感情はそれを嘘だとは認めなかった。俺には英里の嘘を見抜けないと、その日知ってしまった。
「知ってるけど」
英里は目を伏せてそう言った。
英里が照れた顔を隠すように俯くのを見て俺は世界で一番英里のことを好きだろうと思った。
英里と二人だけの時はこんなにも英里を独占したいと思うのに、一歩外に出るとそれが変わってしまう。妹に英里を紹介できないのは英里の所為なのか俺の所為なのかわからなくなる。
英里が年下だったら。
或いは、同い年だったら。
何度もそういうタイミングはあった。プロポーズしていたかもしれない、そういうタイミングが。
こんな俺のことを好きだと言ってくれる?
胸が潰されるような疼痛を耐えるために俺は煙草に手を伸ばした。
「ちょっと、煙草」
英里は不思議そうに俺を見て小さく頷いた。
なんでこんな風になっちゃったんだ。お互い好きなら結婚なんかしなくたって同棲したってしなくたってお互いだけを一番愛しているならそれだけでいいじゃないかとか英里が何も言わないならいいじゃないかとか二人だけがこの愛を知っていればいいじゃないかとか、馬鹿なことを考えて自分を誤魔化して。
本当は違うのに。
煙を吐くとそれは俺の視界を遮るように宙を揺れた。
俺は英里が好きだ。英里もそのことを知っている。英里は俺のことをちょっとは好きだと思う。そうでなければ同じベッドで寝てくれないだろう。
俺は英里が好きだ。
俺は英里が好きだ!!
そうか、分かった。
今頃になって酒が回った訳はないだろうけど俺は根拠のない自信に背中を押されて煙草の火を消した。振り返ると英里がテレビのリモコンを操作しているのが見えた。
もう誰になんて言われてても構わない。
分かったのだから。
「英里!!」
俺が大きな声で呼び掛けると英里は驚いた顔を俺に向けた。目を見開いて少し口も開いている。俺はバルコニーから部屋に戻って一直線に英里の元へ向かった。英里は戸惑った様子で椅子から立ち上がって俺と向き合った。
「好きです」
分かった。分かってしまった。
「英里は、俺のこと、好き?」
俺の質問に、英里は顔を赤くして頷いた。俺はそんな英里を力一杯抱き締めた。
英里に愛を伝えて、こうして愛を返してもらえる人間は、世界で俺しか居ないらしい。顔を赤くした英里を力一杯抱き締められるのも俺だけらしい。
上林くんが言っていた。
『愛してるって伝えられる立場だから言ってるだけです。ちょっと前までは迷惑じゃないかとか拒否されるんじゃないかとか考えてたんですよ、俺。だから、俺の気持ちは大丈夫だって認められたみたいな感じで、嬉しいです』
俺の気持ちは大丈夫。
俺の気持ちは、大丈夫。
なんて言われてもどう思われてもいい。英里が好きって言ってくれたらなんだっていい。
英里、英里。好き。すごく好き。
もう隠さない。家族に紹介しよう。友人にも自慢しよう。
こんなに好きになった人が俺の腕の中に居る奇跡を信じよう。世間に指差されても天地に責められても構わない。
俺の気持ちは、大丈夫。
曰く、“仰いで天に愧じず俯して地に愧じず”。