※ビビりストレート
普通の男子高校生であれば、隣の席に座るクラスメイトの機嫌が悪くて思わず避けてしまうことがあるのも仕方のないことだろう。
「ジョン、元気?!」
「てめぇ……」
そしてここには、そんなこととは無縁の人間も居た。不機嫌なんて関係ない。吉田は確かに他人の不機嫌を吹き飛ばしてしまえる無神経で底抜けの明るさを持っていた。
だいたいなんで深水が吉田に『ジョン』と呼ばれているのか、俺には想像もできない。きっと吉田の中には俺には知り得ない不可思議な回路があるのだろう。
吉田は深水の机の目の前で嬉しそうに笑った。
「おはよう!!」
深水は眉間に皺を寄せて「ああ」と答えた。
俺にはなんとなく深水の機嫌の悪いのが助長されているようで恐ろしくなる。
すっげー怖い。
吉田はなお嬉しそうに笑った。
「ヒカルと仲良くなった?!」
しかしながらその問いに深水は意外にも「ああ」とぶっきらぼうに答えた。森田を殴ってその場を立ち去っても全く違和感無いような容貌で、彼が少し照れたように微笑んだのが分かった。
俺は初めて深水の顔がまあまあ整っていることを知る。
深水は強面なのによく笑う。
「ヨッシーがさ、ジョンとヒカルは気が合うって言うんだよ。だから俺も絶対そうだって思った!」
「なんだそれ」
深水は訝しげに吉田を見た。
登場人物が多くて俺には話しの流れが分からなくなってきた。それにこのまま聞いているのも盗み聞きするようで深水に対して悪い気がする。
「ヒカルと友達になった?」
吉田がそう尋ねて深水は口ごもった。
これ以上は聞くまい。深水のプライベートに立ち入るのはちょっと後戻りできなくなりそうで怖くもある。後で口止めされにひと気のないトイレなどに呼び出されて自分が無事でいられるとも思えない。何せ深水はド金髪をオールバックにする高校生離れした出で立ちなのだ。
俺は静かに席を立って一度教室を離れることにした。
「ねえ!」
俺にはその声が無知で残酷な子供の悪口のように思われた。それは勿論、吉田が無知な子供だという意味ではない。
俺はなるべくゆっくり振り返った。
呼ばれたのは俺ではない、という細やかな望みを託して。
「名前教えて!」
脈絡がない。俺は何故か自分でもどうしてだか咄嗟に深水を見てしまった。助けを求めたのだ。
しかし当然、深水は俺を助けなかった。
「あ、おれ?」
俺が尋ねると吉田は「あはは、ウケる!」と笑った。侮辱されたのか楽しんでもらえたのか判断がつかなかったので、俺は切実に深水に助けを求めた。理由はないけど少なくとも深水には吉田よりは常識が備わっていると思う。
「朝からひとに絡むなよ」
深水はなんと、俺の味方をしてくれた。
俺は心の中で深水に感謝の舞いを捧げた。祭殿の前で半裸でやるような逞しい感じのやつだ。
「名前教えてって言ったらいけないわけ?」
深水には感謝しているけど、吉田が深水と言い合ううちに俺は逃げることにした。吉田は俺を無理には引き止めなかったし、深水も俺を引き止めなかったのは幸運なことだ。
吉田は深水を怒らせて怖くないのだろうか。
まあ、そうなんだろうな。
俺は吉田とは違う。
人間ってみんな違うもんだしな。
俺は勇気ある撤退をした。
教室を出る時、余所見をしていたせいで人とぶつかってしまった。深水と同じくらいの体格の彼はすごく様になる舌打ちをしてきたので、俺は恐ろしくて足早に立ち去った。
俺には舌打ちだけでも十分怖い。
【獰猛跋扈】
昼休み、俺は10分足らずで弁当を食べ終えて自席でスマホをいじっていた。
「平野」
俺の名前を呼んだのは深水だった。朝から変わらず不機嫌で恐怖心を煽る低い唸り声なのは俺の気のせいではないだろう。
「ん、なに?」
隣の席に座るクラスメイト同士として俺達は毎日当たり障りなく無難にやってきた。
喧嘩?
有り得ない。
連絡先交換?
必要ない。
朝の爽やかな挨拶?
まあ、それくらいのことはあったかもしれない。
俺が「うっす」と言って深水が「おう」と答えるくらいのことならば。
だから俺は今、深水に名前を覚えて貰えていたことに感動さえしていた。俺に無関心なのは特別俺を嫌っているからではないし、俺に笑顔でおはようと言わないのは俺を殺したいからでもない。
俺はちょっと愛想笑いしてみた。
「なに?」
うふふ、名前を覚えてくれていたのね、とは伝わらなかっただろうけれども。
「お前って意外と穏やかだな」
深水は半ば呆れるような声音で言った。
初めての会話らしい会話でそれかよ。
「深水も、思ったより穏やかだよね」
俺はついつい言い返していた。確かにそんなことも思った。吉田をぶん殴るかと思ったら深水は不機嫌そうに詰るだけだったから。でも今の言い方では「てめぇなんか怖くねぇよ、カス!」みたいに捉えられかねない。
緊急事態だ。
「ははは!」
俺はなぜか笑っていた。雰囲気を和やかに保つ為とは言え、これでは自分のことを貶めているだけだ。
依然、緊急事態だ。
「深水はもう飯食った?」
俺は自分の発言を発言履歴の中に埋れさせる作戦を起用して先ほどの自分の言葉が深水の記憶から少しでも早く消えることを願うことにした。
深水は「まだだけど」と答えた。
え?
もう昼休み半分終わってるけど。
「つーか、平野ってバイク好き?」
「バイク?」
高校一年生の男子が昼抜きなのかよ。こえーよ。逆になんかボクシングとか格闘技を本格的にやってるっぽくてこえーよ。とは思いながらも、とても口に出しては言えないので、深水の会話にそれとなく合わせるしかない。
俺はちょっと身を引いて深水の動きを注視することにした。
「これから山岡と乗るんだけど、来る?」
これから?
俺はこれから午後の授業だけどお前は違うんだっけ?
「山岡って誰だよ……」
俺はそれを言うので精一杯だった。もう息切れしている。深水のスピードに完全に付いて行けてない。トラック半周くらいは遅れを取っている。
俺は平静を装って深水をじっと見た。
攻撃されても、致命傷は避けたい。
深水は「知らねえってことねぇだろ」と呟いた。
いや、山岡って誰だよ。
俺は自分の失敗を悟った。深水には常識があるのだから、こんな風に笑って誤魔化して忘れて貰おうとしなくても、はっきり言って理解を得れば良かったのだ。
深水は午後の授業を受ける気がない。
『山岡』も授業を受ける気がない。
昼食はこれから外に出て食べる積もりだ。
そして『バイク』に乗る。
好きか、と聞かれたのだから、違うと答えれば良かった。嫌いではなくてもそれと好きとは全く異なる。ましてや相手は物怖じしないどころか物怖じさせるのが常の深水だ。曖昧に答えるべきではなかった。
「お前は、飯は?」
「俺は大丈夫。もう食った」
俺は深水の誘いを断れない、と覚悟した。
それから深水は山岡に電話して、学校の敷地を出たところで合流することになった。相手も当然午後の授業を受けないらしい。
サボる、ということだ。
「山岡!」
深水の呼ぶところ、山岡は居た。
見たことある。
今朝の、舌打ちの男だった。
俺は恐怖に竦むのがバレないように「はじめまして」と冷静でいる積もりで自己紹介してみた。
「おれ、平野です」
「ナニソレ。気持ちわりーな」
え?
俺は自己紹介して気持ち悪がられるということに慣れていなかった。たぶん俺だけではないと思う。初対面ではなくてもちょっと面識がある程度の人間同士だったらお互いに自己紹介するべきではないのか。
それとも声?
挙動?
俺は余裕を見せる為に笑ってみた。
「ははは、うるせえよ。お前も自分の名前言えよ」
笑う以上のことをしてしまった。
まさかとは思うが、これで山岡が怒って俺を追い払ってくれたらそれはそれで嬉しい。俺を紹介した深水には悪いけど、俺だっていきなり流れで授業をサボることになったんだ。
「ああ、わりー。俺は山岡な」
山岡は素直に自己紹介した。
受け入れられてしまった。
なんてことだ。
「山岡かー。たぶんクラス違うよなー」
俺は現実逃避したくてなんでもないような態度で言葉を返した。言葉に意味なんてない、脊髄反射のオウム返しだ。
深水は整った歯を見せて笑った。
「お前面白いよな」
「はあ?」
駄目だ。上手い返しが思い付かない。
うふふ、どこが?
なんて聞ける訳もない。隣の席の深水に気持ち悪がられたらたぶんもうやっていけない。彼女気取りのブスかよ、ってクラス中で笑われることになったら高校生活では友達が一人も作れなくなる。
内部進学したら大学でも友達ができなかったりして。
さみしい。
俺はあくまで硬派な男の振りで深水を睨んだ。
ごめん、深水。
「取り敢えず行こうぜ。飯は神田さんが奢ってくれるって」
「ラッキー」
「大濠橋で待ち合わせてるからそろそろ、あ、電話きた」
山岡は電話に出ると「いま学校出るところです」と、敬語で話していた。
神田さんとは誰なのか。校外で待ち合わせているところを見ると在校生ではないらしい。そして山岡が敬語を話すような立場の人。食事を奢ってくれるような人。高校生に学校をサボらせてバイクに乗せるような人。
俺は、神田さんが堅気であることを願った。