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長崎の歴史:フェートン号事件 5


長崎港に入って来たイギリスの
フリゲート艦
「フェートン号」は出島の
商館員を人質に取り

長崎奉行所に水と食料を
要求してきました

長崎奉行所では人質を取られ
また十分な兵力もない状態では
フェートン号の要求を
呑むより仕方なくなりました


しかし要求された水は
まず少量だけ渡し

残りは明日以降渡すといい
応援の兵力の到着まで
時間稼ぎをすることにしました

つまり長崎奉行所では
商館長のドーフの
戦闘回避の願いを却下したのです

そして長崎奉行所は
まず約束通りに
十分な食料と水をフェートン号に
積み込みました


そのタイミングで近隣の
藩から応援の兵力が到着します

フェートン号は残り1名の
商館員を釈放します

長崎奉行所は早速
攻撃準備に取り掛かります

しかしフェートン号は
1808年10月7日未明に
碇を上げて
長崎港外へ出て行きます


結果だけを見れば
日本側には人的、物的な
被害もなく
オランダ商館員2名を釈放され

フェートン号事件は
無事に解決したことになります

ところが手持ちの兵力も無く
むざむざと
イギリス船を入港させた
長崎奉行の松平康英は
国を貶めたとして自ら切腹し

長崎港警備の兵力を勝手に
減らしていた
鍋島藩主鍋島斉直は閉門を
命じられます

この事件を契機に
日本の歴史は動いていきます
次回からこのことを
イメージして
考えていきたいと思います

〜次回 長崎の歴史へ続く〜

from Itsuki


↑しらゆきちゃん
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