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長崎の歴史:禁教令 4


1619年の京都での
52人の火刑により
幕府はこれを
キリシタンへの見せしめと
してましたが

京都をはじめとした
キリシタンは
これを殉教と見なして
更に結束を高めていきました

キリシタンはこれを
京都の大殉教と呼びました

これに幕府は
また苛立ってきました


こんな状況の中
1620年 元和6年

日本への潜入を
試みようとしていた
宣教師
二人が偶然見つかります

これをきっかけに
幕府はキリシタンへの不審を
一気に高めて
大弾圧へと踏み切ります

キリスト教徒の大量捕縛を
繰り返し
行うようになりました


1622年には
かねてより捕縛していた
宣教師と修道士
更に信徒合わせて55人を

二十六聖人が処刑された
長崎 西阪の丘で処刑します

続けて1623年に
江戸で55人が処刑されて

1624年に
東北で108人が処刑され
同年に長崎 平戸で
38人が公開処刑されました


この一連の大弾圧は
「元和の大殉教」と呼ばれます

この元和の大殉教は
ヨーロッパにも伝わりました

これにより日本への
布教は熱を帯びる結果になり
宣教師の日本への潜入は
繰り返されることになります

そして時代は鎖国令へと
つながっていきます

〜次回 長崎の歴史に続く〜

from Itsuki


↑パンサーくん
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