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長崎の歴史:永井隆 3


報告書を書き上げた
永井隆さんは
翌1946年 長崎医科大学の
学長に推されました

大学での仕事の合間に
原子爆弾に関する
研究発表をしたりしていましたが

同年7月についに倒れ
その後は病床に伏すことになります

永井隆さんは
病床から原子爆弾で荒野と化した
浦上の丘に
花を咲かそうと桜の苗を
1000本寄贈します


1948年には
永井隆さんの療養の庵として

浦上のキリスト教徒と
浦上の人たちの協力により
「如己堂」が建てられます

永井隆さんの
病状は悪くなる一方でしたが
「自分はまだ腕や指が動く」といい

平和への願いを込めて
「長崎の鐘」や
「ロザリオの鎖」など執筆します


まだGHQ占領下の中
本の出版は困難を極めましたが

出版された
永井隆さんの本は
日本中で読まれました

病状の中で執筆を続ける
永井隆さんには
ヘレン・ケラーをはじめ

ローマ教皇の特使など
多くの方の見舞いが来ました

1949年 長崎医科大学を退官し
同年12月に
第1号の長崎名誉市民の
称号を受けました


病状が重くなると
永井隆さんは執筆の鉛筆を
2B 4Bと濃い鉛筆に変えていき
最後はこするような書き方に
なりました

1951年に「乙女峠」を
書き上げると
白血病が更に悪化します

この執筆を最後に
永井隆さんは長崎医科大学に
入院します

同年5月1日永井隆さんは
十字架を手に
43歳の生涯を閉じました

自ら被爆して
救護活動に献身的に務めて
晩年は平和を願い執筆を続けた
永井隆さんは

現在 長崎外国人墓地に
妻 緑さんと共に眠っています

〜次回 長崎の歴史に続く〜

from Itsuki


↑スウィートくん
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