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長崎の歴史:坂本龍馬 4


「いろは丸沈没事件」の後
龍馬は海運通商以外に
北海道開拓を
構想するようになりました

実際龍馬の妻お龍も
「北海道の言葉の稽古を
していた」
と語っています

しかし海援隊の経済状態は
決して楽では
なかったみたいです


龍馬は頻繁に
三菱の創業者である
岩崎弥太郎に

金銭の援助の願いに
赴いています

あまりに龍馬が頻繁に
来るので
弥太郎は「いささか厄介」と
日記に書き残してます


1867年6月9日龍馬は
後藤象二郎と共に
「夕顔丸」に乗船して兵庫に
向かいます

龍馬は夕顔丸の中で
明治新政府の綱領の原本になる
「船中八策」を
後藤象二郎に提案します

後に起草された
「新政府綱領八策」は
龍馬の「船中八策」を元に
したとされています


同年10月龍馬は
後藤象二郎の
依頼で福井へ向かいました

11月に京都へ戻り
定宿の近江屋で
海援隊の中岡慎太郎などと
会っていたところ

突如十津川(奈良)郷士と
名乗る数人が押し寄せ
龍馬は暗殺されます

龍馬を失った海援隊は
求心力を無くし分裂状態になり
1868年土佐藩の命により
解散させられました

開国に向けて働いていた
龍馬でしたが
明治新政府の誕生を目に
することはありませんでした

〜次回 長崎の歴史に続く〜

from Itsuki


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