スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

長崎の歴史:坂本龍馬 3


1867年5月26日
日本初の海難審判の
「いろは丸 沈没事件」が起きます

事件の経緯は
龍馬率いる海援隊が
伊予国(愛知県)から借り受けた
いろは丸で
長崎から大阪へ向かった際に

長崎へ向かっていた
紀州藩(和歌山県)の軍艦明光丸と

備中国笠原諸島(岡山県笠原市)の
六島付近で衝突しました


いろは丸は大破して
自力走行が不能になりました

龍馬など海援隊士の
いろは丸乗組員たちは
明光丸に乗り移りました

明光丸は広島県福山市の
港に入り
龍馬たちは廻船問屋の
邸宅などに滞在し
4日間賠償交渉をしました


しかし明光丸は賠償交渉が
まとまらないうちに
長崎へ向けて出港したため

龍馬たちは再交渉のため
後を追いかけました

長崎奉行所では
海援隊・土佐商会および
土佐藩は紀州藩と
争うことになりました

龍馬側は銃400丁や
銃火器3万5630両
金塊4万7896両など
積んでいたと主張して

明光丸の航海日誌などを
差し押さえ
事故原因の追及を主張しました


龍馬はさらに
「万国公法」を持ち出します

「万国公法」とは
当時の国際法の解説書です

このことで
「いろは丸沈没事件」は
日本初の海難審判になりました

さらに龍馬は長崎の繁華街で
民衆を煽り紀州藩を
厳しく非難する流行り歌を
歌い世論を味方につけて
審判を有利に運びます

結果一ヶ月後に紀州藩が
折れて賠償金
8万3526両(約42億円)で
決着しました

〜次回 長崎の歴史に続く〜

from Itsuki


↑こつぶちゃん
捜索中です
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2014年12月 >>
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
カテゴリー