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長崎の歴史:高嶋秋帆 2


「天保上書」を幕府に提出した
秋帆ですが

その上書は老中の
水野忠邦の目に止まりました

そして1841年5月9日
武蔵国徳丸ケ原で
(現在の東京都板橋区
高島平
この地名は秋帆に
ちなんで付けられました)

日本初の洋式砲術の
演習が
行われることになりました


この演習は一般からの
見学も許され
見学者の中には
若き日の勝海舟もありました

約100名の見学者の中
西洋砲が
次々と発射されました

演習は一発の不発弾もなく
成功に終わりました

幕府は秋帆の所有する
大砲を買い上げ
秋帆に褒美を与えました


秋帆は幕府から
砲術の専門家として
重用されるようになります

秋帆は幕臣などに
砲術を伝授し高島流砲術は
広まっていきました

しかし秋帆が幕府に
重用されることを妬んだ
旗本の
鳥居耀蔵が密貿易の罪を
偽装し

1842年 秋帆は長崎奉行の
取り調べを受け
江戸 天馬町に投獄されます


1845年 老中
阿部正弘によって
再調査されると鳥居の不正が
発覚し

鳥居は職を解任され
秋帆は密貿易の
罪から解かれ岡部藩(埼玉県)に
預けられます

高島家は断絶されて
いましたが
洋式砲術の必要性を感じた
諸藩は秘密裏に
秋帆に接触してました

1853年 ペリー来航により
社会情勢が変わると
秋帆は岡部藩預かりを解かれます

〜次回 長崎の歴史に続く〜


↑スゥィートくん
睡魔と闘ってます

from Itsuki
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