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長崎の歴史:本木昌造 3


1869年日本初の民間活版業
「新町活版所」を創立した
昌造ですが

同年横浜で
洋紙を用いた日本初の
新聞を刊行します

さらに3年後に長崎でも
月刊の
「長崎新聞」を刊行します


しかし当時新聞は昌造が
期待したほど
売れませんでした

財産を使い果たした
昌造は
経営の立て直しを
弟子の平野富二に託します

平野富二は長崎の副知事に
当たる職に就いており
また長崎製鉄所と長崎造船所の
所長も勤めていました


平野富二は活版所の業績を
みるみる回復させました

活版所の経営は
平野富二が後を引き受けて後に
昌造の息子が受け継ぎ

時代の波に乗り
印刷業は急成長しました


この頃から昌造は
病床につく事が多くなります

1875年に京都を旅した後は
病状が悪化して
同年9月に52歳の生涯を閉じます

昌造の活字開発は
平野富二の他にも様々な人が
取り組み
西洋活版技術は
日本に定着していきました

from Itsuki


↑スゥィートくん
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