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長崎の歴史:本木昌造 2


印刷以外に
様々なものに
関心を持った昌造ですが

印刷への情熱は消えず
1853年に
パンチ父型の開発に挑みますが

材料や技術の不足で
上手くはいきませんでした


1860年 昌造は
長崎製鉄所の
(後の長崎造船所)
御用係(用務担当)に任命されます

そこで昌造は
イギリスから蒸気船を購入して
自ら船長となって
江戸などの航海に出ました

1868年には
長崎築町 浜町間に
日本最初の鉄橋 くろがね橋の
建設を手がけました

(この橋が
昨日の散策記事の橋です)

このように昌造の
活動は通詞、海運、製鉄と
広がりますが
活字への情熱は失いませんでした


昌造は1855年に
長崎奉行所に上申して

役所内に活版判摺所を
設けて
自ら御用係になります

これが後の
出島印刷所になります

1869年には
アメリカ人宣教師の紹介で

上海の聖教印刷所・美華書館の
代表 ウィリアム・ガンブルを
長崎へ迎えます

そこでガンブルから
活字鋳造と組版の講習を受け

長崎製鉄所付属の
活版伝習所を設立します


(↑くろがね橋です)

昌造は初めて納得がいく
和文活字を作り上げることに
成功しました

同年 昌造は長崎 新町に
日本初の民間活版業
「新町活版所」を創立します

昌造は長崎の有志から
4千両(約4億円)の
莫大な資金を集め

さらに大阪、東京、横浜に
支所を設けていきました

〜次回 長崎の歴史に続く〜

from Itsuki


↑スゥィートくん
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