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長崎の歴史:禁教令


島原の乱も終結して
ここからは
「鎖国」と「禁教令」を
考えていきたいと思います

この2つの政策は
江戸幕府の要的な政策であり

この政策があったからこそ
江戸幕府は
およそ260年間続きました

またこの2つの政策のため
長崎は江戸時代に特別な
位置になり
特有の歴史を刻みました


まず禁教令ですが
豊臣秀吉は1587年に
「バテレン追放令」を
発布していました

しかし秀吉の追放令は
表向きなものであり
実行力は
ほとんどありませんでした

長崎では次々と
キリシタン大名が誕生し
長崎の町は
一時的とはいえポルトガルの
寄進地になりました

ここから秀吉の怒りに
火が付き遂には
「二十六聖人の殉教」に
つながりました


対外政策は織田信長から
豊臣秀吉
そして徳川家康と
ほぼ変わらず受け継がれました

当初江戸幕府も
キリスト教徒にはさほどの
弾圧は
取ってませんでした

しかし1602年になると
ドミニコ会や
アウグスティノ会など
様々な修道会が
日本で布教を始めます

しかも幕府の支配体制には
従わず
その布教活動は東北まで及び
次第に活発化します


この現実に江戸幕府は
態度を硬化させていきます

そんな中キリスト教に関わる
様々な事件も起き
キリシタン大名とキリシタンの
収賄事件も起きてしまいます

これをきっかけに
江戸幕府はキリスト教の
禁止を行い始めます

江戸幕府の禁教令は
「慶長の禁教令」と呼ばれます

〜次回 長崎の歴史に続く〜

from Itsuki


↑スウィートくん
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