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長崎の歴史:福地桜痴 3


「東京日日新聞」に入社した
桜痴は
当時社会科地位が低かった
新聞記者の地位を上げたいを考え

大蔵省時代の人脈で
伊藤博文や大隈重信に意見を聞き

「社説」として署名入りで
記事にしました
これが日本初の新聞の
社説になります

社説を設けたことは
新聞が主張を伝えることに
つながり
新聞の近代化の一歩になりました


やがて「東京日日新聞」は
発行部数を伸ばしていきます

当時政府は官報を持ってなく
桜痴は「東京日日新聞」を
政府の機関紙と考えていました

1876年桜痴は
「東京日日新聞」の社長に
就任します

1877年「西南戦争」が勃発すると
自ら取材に出向き
「田原坂の戦い」などを

従軍記者として記事を掲載し
戦争報道の
ジャーナリストとして
名前を上げます


翌年
実業家の渋沢栄一とともに
「東京商工会議所」の
前身「東京商法会議所」を
設立します

さらに東京都の前身
東京府議会議員に当選し
議長を努めました

桜痴は明治時代の
「大日本帝国憲法」の私案の
私擬憲法「国憲意見」を起草し

さらに
「軍人詔勅」の制定にも
加わりました


桜痴は1882年に
政府支持政党として
「立憲帝政党」を設立します

「立憲帝政党」は与党を
目指しますが

明治政府が党派などに
左右されない「超然主義」を
とったために

存在意義を失ってしまい
「立憲帝政党」は
翌1883年に解党しました

〜次回 長崎の歴史に続く〜

from Itsuki


↑こつぷちゃん
躍動してます
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