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長崎の歴史: 本木昌造 4


「活版印刷所」まで
設立した昌造でしたが

昌造が手にした活字には
「ひらがな」は無く

新たにひらがなを開発する
必要に迫られました


昌造はひらがなの
活版活字を依頼されると

そのひらがな活字に
「和様」と名付け

門下生3人を
大阪へ送ります


更に東京にも
2人の門下生を派遣します

「大阪活版所」と
「長崎新塾出張活版製造所」

ここまで一見順調のようですが
本木昌造は
経営の才能には
恵まれなかったみたいです


本木は活版所などの経営が
苦しくなると
経営建て直しに実績がある
門下生に任せてました

また別の門下生を神奈川に送り
「横浜毎日新聞」の創刊
そして長崎では
「長崎新聞」を創刊しました

しかし近代になり
修学制度が出来ると
県からの圧力で
活版印刷所の
閉鎖が命じられてきます


↑町ねこさん
経営能力も・・・・・
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