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長崎の歴史:本木昌造 2


活版印刷の美しさと技術の
高さに感銘を受けた
本木昌造は

「いつか自らの手で日本語の
刊行物を作ってみたい」と
考えるようになりました

しかしロシアの使節
プチャーチンが
長崎へ来航した1853年
昌造は逮捕・投獄されました


その罪は蘭通弁書刊行の罪
つまり
英和辞典を出版した罪です

これは他人の罪を被らされた
身代わりの他ありません

出獄した昌造は謹慎となります
この間昌造は
パンチ型の製造に取り組みます


しかし技術の未熟さに
材料の不足などもあって
成功に至りません

1860年
長崎製鉄所の御用係になります

昌造はイギリスから
蒸気船を買い入れると
自ら船長となり
江戸などへ航海に出かけます


昌造は航海の寸暇を見ては
活版印刷の事を考え
ついには「長崎版」と呼ばれる

外国製の活版印刷機で
欧文の印刷物の
刊行出版に関わります

こうして金属活字の鋳造は
進んでいきます
これが後の「活字印刷所」に
つながっていきます

from Itsuki


↑町ねこさん
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