子供が親を待つように、僕も友人を待つ
くるかこないかわからないのに、いろんな妄想をめぐらせて、一喜一憂している
いつも待たされる側なのは待たせるのが苦手だから。でも待つのも得意な方ではない。
得意なやつは妄想したり、そんなありもしないことに一喜一憂したりしない。
僕はまだまだ『親を待つ子供』だ
まぁ子供の方が気軽に親を待っていられるのかもしれないので、同じとは行かないかもしれないが。
なぜなら必ず親が迎えにくると知っていて、信じているから。
昔の僕もそうだった。
小さな部屋に入れられて、暖かい日差しの射す場所でのんきに眠っていた。
迎えに来ると信じてた。
結果は見ての通り。
親は迎えに来ず、僕は独りこの小さな部屋に入れられたままだ。
だんだん視界が開けてきて、たくさんのひとたちが行きかう景色が広がっていた
『どうしたの?』
ガヤガヤとした雑踏に鈴が鳴ったようだった。
透き通った声。
忘れもしない。今の僕の友人である。
彼女は僕にいった『家においで』
忘れない。彼女のあの言葉と笑顔とその手の温もりを。
………あの日からどのくらい経つのだろう。だんだん彼女の笑顔もぼやけて見えなくなった。声も聞こえずらくなった。ただ手だけは温かい。これだけは変わらない。
だんだんその温もりも薄れていって………10年という長い間、友人と共に生きたい生涯に幕を閉じた。
彼女はまだまだこれから先の『人生』をいきるだろう。
こんな薄汚れた老いぼれを最期までそばにおいてくれてありがとう。
独りで待つのも悪くはなかった。
これからも、記憶の中で思い出してもらえるのを待っていようかな。
おやすみ。またね
完