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単純がいい

写真は四国八十八箇所第78番札所郷照寺の大師堂です。
 
ここを訪れた時、珍しい情景に遭遇しました。普通、お遍路さんは、お寺に入ったら、般若心経など唱えながら、ご本尊をおまつりした本堂に参拝してから、大師堂にお参りするのですが、弘法大師のみを崇める「大師教」というグループ(教団)があります。
 
この郷照寺の境内で休憩していた時のこと、「な〜むだいし遍照金剛♪」、「な〜むだいし遍照金剛♪」と合唱しながら列をなして集団が境内に入っきました。金剛杖を持った先達(先導者)の後に大勢の女性が列を作って進んできました。まるで長い蛇が進んでくるような姿でした。
 
この集団の列は、そこのけ、そこのけ、俺たちが通るのだ、というように、本堂の前はあっさりと素通りし、「な〜むだいし遍照金剛♪」、「な〜むだいし遍照金剛♪」とだけ唱えながら、この写真の大師堂に向って上がり、うやうやしく参拝し、本堂は目にも留めずさっと引き上げて行ったのです。
 
弘法大師だけを敬い、面倒なお経は唱えず、「南無大師遍照金剛」と弘法大師をたたえる言葉のみを繰り返し唱えるという割り切った信仰の姿を見た思いでした。
 
物事は割り切って単純に考えることが良いのかも知れません。
 
 

絶望を見た!

木曽の御嶽山の噴火爆発と同じような状況に遭遇された方々が50年前にいました。
 
皆さんは、本当に絶望した人の姿を見たことがありますか?
私は絶望という言葉を聞けば必ず思い出すことがあります。
 
大学1年の時でした。私の故郷、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で大規模な炭塵爆発事故があり、何百人という炭鉱夫が亡くなりました。
 
ニュースを聞いた私は、従兄が炭鉱に勤めていたこともあり、急遽、福岡から大牟田に帰りました。乗り換えのために大牟田駅の手前の栄町という小さな駅に降りた時、ホームのベンチに座る女性と小学生くらいの女の子の姿が目に入りました。
 
「かあちゃん、かあちゃん、」と女の子がしきりに話しかけるのですが、30歳代と見られる女性は、完全に魂が抜けたように腑抜けの姿勢でぐったりしているのです。
 
真っ青な悩みきったという顔です。涙は出尽くして、もう枯れ切っているのでしょう。「父ちゃんな、死なしたけんね。」と小さく女の子につぶやいて、まるで痴呆になったような表情で座り続けていました。
 
「かあちゃん。かあちゃん」と女の子は母親をゆすり続けるのですが、母親は腑抜け状態、魂の抜け殻という表現そのもので、で反応はありません。
 
「人の絶望とはこういう姿なんだな。」とつくづく、ある意味で、私は見入ってしまっていました。炭塵爆発事故で夫を亡くした妻と、あの女の子はその後、どのような人生を歩んだのか今でも気がかりです。

三井三池炭鉱炭塵爆発事故;
1963年11月9日、三井三池三川炭鉱で炭塵爆発が発生し、戦後最悪となる458人の犠牲者(死者)と839人の一酸化炭素中毒患者を出した。一酸化炭素中毒で、寝たきりになったり、脳をやられ人格が変わってしまったりするなど、患者は重い後遺症に長年悩まされてきた。

福岡県大牟田市出身者にとって忘れられないキーワード:
朝鮮戦争景気による20万炭都大繁栄、 三池争議、 炭塵爆発事故、 三池工業高校甲子園優勝(初出場、公立) 三池炭鉱閉鎖(三井の撤退)

一個の卵の話

以前、「一杯の掛け蕎麦」という話が脚光を浴びたことがありましたが、後に作り話だったことが暴露されました。
 
今日は、本当にあった話を語ってみたいと思います。私にとっては辛い話なのですが。。
普通の人間は人生を生きてくる時、いつも幸せなのではなく、不孝な時期をきっと通り抜けてくるものです。
 
私が小学生低学年の、太平洋戦争が終わってもまだ日本は不況のどん底にある時代(昭和20年代)のことです。

父の勤めていた会社の労働葬儀でストライキが長く続き、給料が払ってもらえないので、父たち従業員は知り合いの漁師さんたちの好意で分けてもらった海苔を売りまわる行商をして生計を立てていました。
本当に僅かな収入でした。

ある日、夕飯のおかずが買えないほどの苦境が生じました。
母が大切そうに卵を1個出してきました。卵を割り、黄身を取り出し、母は言いました。

「お父さんは働かなければならないのでこれを食べてもらうよ。」
残りの白身に醤油をいっぱい注いで掻き混ぜて量を膨らまして、それを3等分して、私と2人の妹はご飯に注いで食べました。

母は「私は卵は嫌いだからいらないよ。」と言って、漬物だけで食べました。
我が家の夕飯はそれでおしまいでした。こういう日が数回あったのを今でも鮮明に覚えています。
 
今の若い方々には、「作り話だろう?」と思われるかも知れませんが、私が本当に体験した実話です。

どん底(貧しさ)を一度味わうことは、人間にとって必要なことかも知れません。
人生薬のひとつとも言えるでしょう。
それが、物理的(金銭的)なことにしろ、精神的なことにしろ。
人間万事、塞翁が馬。幸と不孝が入り混じって作られる人生は味のあるものかも知れません。

今、自分の人生が不孝だなあと思っている方は、今はある意味で幸せになるチャンス(下準備)にいるんだと思って頑張ればいいんですよ。
 
父も母もすでに世を去っています。苦しみも喜びも共にくぐり抜けてきたからこそ、家族だったとつくづく思い返すこの頃です。皆さん、親孝行はお早めに。

セアカゴケグモが

今、東京で見つかったと騒がれているセアカゴケグモが、私の住むマンションの1階の会議室の窓でも先日発見されました。

大阪市に隣接する大阪府東部のD市です。横の公園では子供たちも大勢遊んでいます。注意書きは貼り出されていますが、そう大騒ぎはしていないようです。

セアカゴケグモより、誘拐犯の方がはるかに怖い存在だからでしょうか。世の中、マイナスのニュース(広島災害、女児殺害、エボラ、イスラム国、物価高)ばかりですね。昭和時代には、結構前向きなニュースが多かったような気がするのですが。

世の中は刻々と悪い方向に全てが陥って行っているような気がしています。最悪の事態発生に対するリスクマネジメント(緊急対応)を準備しておく必要がありそうですね。

速報
木曽の御嶽山が爆発・噴火
やはり、何か突然最悪の事態が発生する予感がしていた。 

昭和時代

孫にこう質問されたことがあります。
「おじいちゃんは、何時代の人?」
「えっつ、う〜ん、昭和時代だよ。」
 
あっという間に、昭和も遠くになりにけり。
 
2chに載っていた、歳が分かってしまう昭和の言葉です。
 
アベック (カップル)」
乳母車 (ベビーカー) 
パーマ屋 (美容院、ヘアサロン)
メリケン粉 (小麦粉)
国鉄 (JR)
 
この他に私が思いつく、昭和時代の言葉をあげてみます。
 
逢引 (デート)
月賦 (分割)
接吻 (キス)
衣文(えもん)掛け (ハンガー)
産婆(さんば)さん (助産婦)
電子計算機 (コンピュータ)
レコード屋 (CDショップ)
電気釜 (炊飯器)
写真機 (カメラ)
隣組 (自治会)

米穀配給通帳」 
通称、米穀通帳と呼んでいました。食料不足から、政府が1942年(太平洋戦争末期)〜1981年まで食管制度の下で、国民に米の配給が行き渡るうように各所帯に発行していた通帳。これが無いと米屋では米は売ってもらえなかった。市役所で身分証明書のように発行してくれた。配給量は一人あたり15s。子供が産まれたら新たに1人分追加して発行された。引越しのたびに移動持参したものだった。学生は自分の分を分離して発行してもらい下宿先の大家さんに渡して米を買ってもらったものだった。普通、どこの家の台所にもこの米穀通帳がぶら下げられていた。
 
昭和の時代、我々はこのような言葉を当たり前に使っていました。
皆さんのお父さん、お母さんに確かめてみて下さい。
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プロフィール
湖南さんのプロフィール
性 別 男性
誕生日 6月7日
地 域 大阪府
血液型 B型
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