風邪をひいた。
何年ぶりか分からないが、頭が重くずきずきと鈍い痛みを発して関節が軋んで寒気は止まらず発熱で意識が朦朧とする。息も絶え絶え連絡を取ると、ミヤコさんはいつもと変わらない調子で言い放った。
「バカは風邪引かないっつうのにねぇ。この忙しい時期にまあ」
「……すいません、」
まったく返す言葉もない。ただでさえ役に立っているとは言えない身分で風邪だなどと、迷惑以外の何物でもないだろう。お荷物どころか不用品だ。
「殊勝だこと。気も弱くなってんのかい」
寒中水泳が効いたのかねぇ、と呟いてからミヤコさんは声音を変えた。
「幸いあんたに重要な仕事は回ってない。しばらくおとなしく寝てるんだね。……誰かに飯でも持たせていかせられりゃいいんだけど、」
とんでもない。人に来てもらうだなんて申し訳なさで治るものも治らなくなる。
「大丈夫っす、俺はひとりでなんとかしますから、大丈夫っす、ずっとそうして来ましたから――」
そんなことを回らない頭で言いつのって通信を切った。とりあえず水を飲んで、食い物は作りおきを適当に腹に入れて、あとは眠ってしまえばいい。何もしなくていい。ああ、でも台所が遠いな。立てるか。難しいな。ダメだ、何か食わないと。いや、もう意識が――、
――何をしに来たの××を死なせるつもりなの?!
ヒステリックな女の声がする。誰の声だったろう、それすらも思い出せないうちに、別の声が必死に答えているのが聞こえた。ああ、こっちのは分かる。これは、俺の声だ。俺のガキの頃の。
――違う、違う俺はただ、
――この子はあなたとは違うのよ、
そうだ、そんなこと言われるまでもない。××は俺とは違うし、俺は××とは違う。他の誰とも違う。だから、
――あんたなんか、あんたなんか、
気絶するように眠りに落ちて、何か嫌な夢を見た気がする。汗でべたつく身体が不快だ。しかし一眠りしてだいぶ楽にはなった。腹が減っている。俺は生きている。
「よかったね」
「おう」
おう?
天井から視線を移すと、そこにシオンが立っていた。気配はなかった。
「……何してんだ」
「看病して来いって言われたから、見てた」
鍵はかけてあったはずなのに、なんてのは相手が相手だ、問題ではない。ミヤコさんが何を思って何を言ったのかは知らないが、こいつは俺とは違って戦力だ。最高に近い戦力だ。こんなところで俺なんかに時間を費やすな。お前にはもっと出来ることがあるだろう、やるべきことがあるだろう。回らない頭でそう思ったのだが、実際口に出せたのは「帰れ」の一言だけだった。当然シオンは不満そうな顔をする。
「ちゃんとやり方は聞いてきたよ」
違う、そうじゃねぇんだ。
「まずはネギで首を絞めればいいんでしょ」
違う。
頭痛が増した。体力も気力も落ちているときにこれは無い。無理だ。勘弁してくれ助けてくれ。帰ってくれの意味が変わる。
「冗談だよ、そんな泣きそうな顔しないでよ」
さすがに俺の悲壮が伝わったのか、シオンは長ネギを放った。残念そうに見えたのは気のせいだと信じたい。そして代わりに取り出したのは、
「リンゴでウサギ」
透かし彫りだった。
「……器用だな」
「まあね」
自慢げにするな。
「……勿体なくて食えねぇよ。水をくれねぇか」
「氷水? 頭をつけるんだっけ」
「飲用だよ」
「なんだ」
なんだってなんだ。
シオンの背中を見送って、目を閉じて、深呼吸して、身体を起こした。大丈夫、大丈夫だぞ、俺。たった数歩を追いかけて台所に向かう。
「寝てていいのに」
「お前の顔見たら起きなきゃと思ったんだよ」
「役に立てたようでよかったよ」
その後、あったものをぶちこんで作った適当うどんをなぜか2人で食って、片付けをしてもらっている間にシャワーを浴びて、俺は再び布団に戻った。なんだこれ。
「俺、このまま寝るけど、」
「帰らないよ」
これは言っても聞かないな。
「なんでだ」
「居るだけでいい、って言われたから」
ああそうか、そうですか、勝手にしてください。などと言うまでもなくこいつは勝手にするのだろう。考えてみればいつもそうだ。勝手だ。自由だ。羨ましいくらいに。
他人が近くにいる中で眠るというのは落ち着かないものかと思いきや、少し前まで同じ屋根の下で生活していた仲だし、風邪のダルさもあったし、俺はいつも以上にすとんと眠ってしまった。今度は嫌な夢は見なかった。
「――うん、異変はないよ。このまま一晩様子を見てればいいんだよね。大丈夫、何かあったらすぐに楽にしてあげるから。……冗談だって、過保護だな。そのための僕なんでしょ」
目覚めるとシオンの姿はなく、枕の辺りがなぜか水でビタビタになっていたのが気にかかったが、体調はかなり回復していた。もう動ける。念のため確認すると、窓はもちろん玄関の鍵もすべて閉められていた。丁寧なことだ。テーブルにはリンゴやオレンジが並べられており、よく見ずともそれらすべてに小動物が掘り込まれていた。
「だからなんでカービングなんだよ」
子どもふれあい動物園といった体のラインナップから、俺はウサギを手に取ってかじる。新鮮な甘さが身に染みた。
#しろた夜の1本かき勝負
お題:空腹に劇薬