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タイトルなし

学校の先生になりたいと思ったのは中学二年生の時だった。
担任にいじめられていた私を助けてくれた理科の先生で、私が言うのもどうかと思うけど変な先生だった。
小さな水素爆発の実験では私を実験台にして中で爆発するボトルを持たせたり、私が笑顔でボトルを持って爆発の瞬間を見ている写真を学会で使ったら他の先生からうけた等とわざわざ伝えられたりした。
他の生徒からは好かれていなかったのもまた魅力であり、尊敬する人として自慢だった。
その先生の紹介で大学の子供向けの理科の実験のワークショップに参加させてもらったこともある。
他のどの教科より嫌いだった理科を、美術よりも好きにしてくれた先生に憧れて学ぶことの楽しさを感じた。
じゃあ私は得意の美術で、色んな人に学ぶことは楽しいと思ってもらいたいと単純に思ったのがきっかけで教育学部までやっとの思いで辿り着き先生を目指したのが3年前の話である。
本格的に教師を目指そうと試験対策勉強に取り組んだ矢先、6回目の実習で教職というものに完全に辟易してしまうきっかけとなる出来事に遭遇し、かなり落ち込んで散々泣いた。
でも今更別の道が見えるような余裕があるわけでもなく本心とは裏腹に勉強に専念したが、結果渡された答えは不合格であった。
自分は今迄こんなもののために努力して4年も時間を費やしたのか、屈辱的な思いも堪えてきたのか、どれほどの人に無駄な時間と金銭を費やさせてしまったのだろうか。
そう思わざるを得なくなり、自分の無能さに対する失望感と嫌悪感で体中が一杯になり苦しかった。
高校受験で失敗したことを機に、父母の仲を壊してしまったことを思い出した。
ただ今回ばかりは失敗して教職の道を断ち、自分の新たな道を開拓出来ることに喜びを感じる。
しかしそれによって前述のようにまた誰かに辛い思いをさせてしまうのではないかと考えると怖い。
今は直ちに気分転換をし、新しい道の開拓に取り組まなければならない。
幸い高校受験の時とは違い、チャンスは何度でも何種類でもあるし、その一つ一つに全力で当たって行けばどれかが開けると期待できる。
今日がまたスタートだと考えて実直に努力しよう。


さっき車窓から見かけた白黒の野うさぎを見てそう思った(^-^)ノ

近況

最近雨が降ったり止んだり、台風のせいなのか傘を持ち歩かなければならない毎日。
傘を持ち歩く習慣の無かった私はそんな簡単な事にストレスを抱えてしまう。
からっとしないじめじめと気持ちの悪い空気。
低く重い色の重厚な雲。
こんな日が何日も続いて、そろそろ限界。
参ってしまいそうだ。
ここには楽しく気の合う友人も居ない。
カラオケに行って気を紛らわすのも一人。
お酒を飲んで気を紛らわすのも一人。
最近ではそんなことすらしなくなって、部屋に閉じこもり瞳を閉じて、早く一日一日が終わればいいのにと願ってご飯もろくに食べず飲み物も飲まず死人のように暮らす毎日。

以前友人だった人に現状に対する不満をぶつけてみても、暖簾に腕押しというか、まるで人の話を聞かずに話に全く関係のない部分における私の批判をしだす始末。
まあそこで話を聞いていてきちんとコミュニケーションが取れていれば「以前友人だった人」ではないのだろうけどね。
その時後悔と共に自分の馬鹿さ加減を感じた。
その人もその時、自分に酔いながら言っていたが、「人は変わらない」。
何度も人を信じようとしてこちらがどれほど気をつかっても人の本質に訴えかけられるほどの素晴らしい人ではない限り無駄骨なんだろう。
当たり前のことの様に思えるが、体感を通して知るとやっぱり悲しい。

今はそんなことを忘れてしまえるくらいの時間を早く経たい。
傷ついたこと、憂鬱になることはきっと人は乗り越えられないんだろう。
自分で自分を優しく受け入れて慰めて、忘れてしまう他無いんだろう。

採用試験

終ー了ー\(^o^)/笑
さて画塾の講師でも探そう。

勉強を積み重ねてきたことは全て出し切ったけど、小論文でラスト2、3文書けなかったことは心残りになった。
こういうものは運と言える部分もあるので少々の失敗であって仕方ないのではと母が励ましてくれた。
又、母が作ってくれた弁当の中には「自信を持って頑張れ」等とのメッセージカードが入っていた。
母は内心、私に教員になって欲しいと思っていたと思う。
私が教員に対して失望して教育という世界に辟易したと話をした時に、悲しそうな顔をしたことがあった。
まあ当然のごとく。
4年間大学に通わせてもらっているにも関わらず、そこで学んだことに対して辟易しただの不毛だのと偉そうに話をすればそうなるのは当たり前である。
私が大学で学んだことを生かすことが出来て且つ安定したレールの上を走る為に影ながら努めてくれていた親の存在に気付くことが出来ていなかったことに反省した。
例えそのレールが今や限の見えないいたちごっこのような世界だと気付いても、きっと私はそこに乗じる為に、親の姿を見習い努めなければならなかったのだろう。
試験の終わった今となっては取り返しのつかないことだがアリバイとして受かっていればいいのにと、こんがらがった感情や思考が堂々巡りしている。

それにしても、小論文の参考書というものはある種宗教染みていて何度読み返しても吐き気がする。
教職への熱意や独自の理念を語れと言っておきながら、現職の教師を否定する物言いは禁物であるとしている。
それを書いた暁には確実に落とされるだろうとまで書かれているものもある。
つまり教育の弱みを的確に見抜けられて、改善点を個人的な見解からであっても考えられ、ひいては教育の世界を多方面から追及し不毛な世界ながらも情熱をもって立ち向かおうとする人よりも、どんな不条理なことにも周りの意見と同調する都合の良い人を求めているのだろう。
きっとどの職においてもそうだと思うが極端に独裁的な考え方だと思う。
仕事とは宗教だろうかとも考えてしまう。

まあ何を言っても今更なのでもう考えるのをやめることにする。
今後どう行動していくかは大いに結果次第なので。

なんだかんだ言って

結局Twitterに戻りつつある。
と言うのも最近実習やら何やらで忙しかったので、手軽に自分の気持ちを打ち明ける場としてそこが良かった。
それに神経が何と無く太く鈍くなってきたので、それによって気分が害される事も少なくなった。
そして最近はテレビの方がそう感じさせられる場面が多くなってきたのでそっちを見ない様にするためにTwitterを見ているという現象が起きている。
テレビの何が嫌かというと、主に一般論の冷たさが嫌い。
血が通っていなくて面白おかしければなんでもいいのかと感じさせられるようなものばかりだと感じる。
真面目にも不真面目にも個人的に面白くなくてただただ不快。
この頃は音だけ消して絵として点けているだけでわざわざ目を向けないようにしているか、深夜はNHKの癒される音楽と汽車や山の映像が只管流れる番組を点けている。
でもこのNHKの番組だけは割と好きで、昼間もずっと流してくれないかなぁと思っている。
それを見る分だけは受信料の支払いを考えてやってもいいとまで思うくらい気に入っている。


まだ時間的に早いけどちょっと眠くなってきた。
今日は特にこれといった主題というか内容が無いけど今後も形骸化しないように気をつけなければ。
本当は実習の事も書きたいと思っていたけどそう言うわけにもいかないし、これからまた一ヶ月くらい用事が出来たので更新も出来なくなりそう。
んー、早速三日坊主だろうか。

本日の制作




自分の絵画のスタイルがぶれながらも3回に2回くらいの確率で確かなものになってきた、と感じるこの頃である。

得体の知れない自分の内なる姿が好き。
それはまるでとても不穏で攻撃的で衝動的な野生の生き物である。
理性を捨てながらも捨てきれない中で様々な相克に喘いで葛藤を抱えている。

人は自分の事が大好きで他者には大凡無関心である。
そんな中、葛藤と言う言葉を、人はどんな意味に、どんな状態に捉えているのだろう。
相克や矛盾の中での葛藤こそ人間の生の真実であり、普遍的な事実だと考えていたけど、それはきっとその疑問に対する答えによってはお節介だったのだろう。
絵画とは自己満足に済むものなのだろうか。
そうは言いつつ、観者に対して「共感出来る人だけ見てくれたら良い」などとまるでこちらからその人を選ぶ様に傲慢な態度である。
やっぱりこの傲慢さこそ作者の自己愛の表れで、結局どんなに相克や矛盾を抱えて葛藤していると自分で思っていてもそこに陶酔している自分が表れた結果が作品なのだろう。
自分の作品は生の真理を追求しているんだ!と思いながら自己愛をもって自己愛としてそれを示している。
今迄考えていた「相克や矛盾の中での葛藤こそ人間の生の真実」という私の理論は間違っていたのだろう。
生の真理とは、野生的に自己に満足し、野生的に自己を最も愛することなのだろう。
自分を愛するための作品制作なんだ、どうせ作品を提示した時に傲慢に見えてしまうなら最初からそう在ってしまわなければ生の真理をもった表現なんか出来ないだろう、…でもやっぱり、自分はそうは考えたくも在りたくなくて、…




いかん、お腹が空いた。
このことはまた今度考えるとする。
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