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ぱたた、と草に血が落ちた。
普段では気にも留めない微かな血の臭いでさえ、今は命取りになりかねない。ムラクモは内心で舌を打った。
(…迂闊だった)
ムラクモが下位のクルペッコ討伐を請け負ったのは、つい今朝の出来事だ。
場所は渓流。星の数も大したものではなく、声真似の得意なクルペッコが呼び出すのは大方アオアシラかドスファンゴ辺りだろう。
そう思って、ムラクモは迷いなく依頼書にサインをしたのだった。
オトモもいない。正真正銘の、ソロだ。
(――もう、撒けただろうか…否)
まだ安心は出来ないだろう。
なるたけ早くモンスターが着地できないネコの巣まで移動して休まねば、ネコタクシーを呼んでもネコの到着までにモンスターにやられてしまう。
切り裂かれた左肩が酷く痛む。大剣は振れそうもない。
ムラクモは恨めしげに、肩に刺さったままの黒い棘を睨んだ。
狩猟環境不安定。
その表示が目に留まったのは確かだが、まさかクルペッコがナルガクルガを呼ぶとは考えもしなかった。
少し前にA/Zの師匠と妹弟子と一緒にナルガクルガの狩猟をしたことがあったが、その時は手も足も出ず悔しい思いをした。それから、たかだか一週間ほどしか経っていない。
そんな短期間でナルガクルガ相手に一人で歯が立つようになるわけもなく。一瞬立ち尽くし剣を構え直す時間を失くしたムラクモに出来たのは、クルペッコに投げるつもりだった音爆弾を投げて逃げることだけだった。
――まさか、激昂したナルガクルガの棘が相当な距離を置いても届くとは思ってもみなかったのだ。
「――…」
痛みに耐えるように、きつく目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのは、しなやかで艶やかな迅竜の姿だった。
――けものは、美しくて強かだから。
ふと、A/Zの言葉を思い出した。
彼女の故郷の村は、それそのものが牧場なのだという。幼い頃から彼女は牧場を手伝い、モンスターから村を守るためにハンターになるべく育てられたと、そう聞いている。
だからこそ彼女はとてもけものに近く、かつけものからとても遠い存在なのだと。ムラクモはそう思っていた。
ムラクモがハンターになったのは、モンスターへの憧れからだった。
大空を舞う、金と銀の火竜。今となっては遠い記憶が、現在の彼の礎となっている。
ムラクモは夢の為にハンターになり、A/Zはヒトの為にハンターになった。
だからこそ、育ちのせいだけでなく彼らは噛み合わず、だからこそムラクモは彼女を慕っている。
本人が気づかずとも。
(――彼女が見たら、笑うだろうか)
尻尾を巻いて逃げる情けない後輩を。
迅竜に一瞬見惚れたが為に深手を負った、不甲斐ない男を。
いくらか警戒で足を止めながら、ムラクモは確実に安全地帯へ近づいていた。辿り着いた川で傷を洗い、少しでも血の臭いを消すことにした。
ナルガクルガの尾棘は未だに肩に刺さったままだ。抜けば出血が酷くなるのは目に見えていた。これ以上は命に関わる。
肩に異物が刺さっている為に、無理に傷を塞ぐ回復薬の類いは使えない。
今できる事は、一刻も早く安全にネコタクシーを呼べる場所へ向かう事だけだ。
休息もそこそこに立ち上がった、その時だった。
どん、という音と共に、身体が吹き飛びそうな突風。そして、甲高い咆哮。
肌を刺す威圧感。
見なくても分かる。
激昂したままのナルガクルガが、そこにいた。
「っ――!」
ひゅ、と喉の奥から呼吸が洩れた。
見惚れるどころではない。
これは、いけない。
先程逃げ切れたのが奇跡だったのだ。
このナルガクルガは、下位の大きさでは、ない。
上位のモンスターが確認された場合には下位ハンターはその一帯に入ることを禁じられるが、ハンターズギルドの観測は絶対ではない。
ただでさえ気球を飛ばせない地域なのだ。予期せぬ事態など、ざらにある。
(迂闊だった…――!)
繰り返して己の油断を後悔し、震える手で大剣を抜いた。左手が使い物にならない以上、大きな剣を持つのは右手だ。元来力の強いムラクモだが、片手では大剣を持てこそすれ振ることは出来ない。
そして更に、今のムラクモには剣を抜く以上の事など出来ようはずもなかった。
見たこともない大きさの迅竜と真っ向から対峙してしまったが為に、気圧されてしまっている。
上位モンスターの威圧感など、これが初めてなのだから。
ナルガクルガが身を低く構え、ムラクモへと飛びかかる。その動きには無駄がなく、己がただの餌なのだとムラクモに自覚させた。
ムラクモに出来たのは、ただ剣を盾のように構え目を閉じることだけだった。
脳裏をよぎったのは、呑気に笑う先輩ハンターの顔だった。
――ぱぁん、と鋭い音と、頬を何かが掠める感覚。
衝撃は、なかった。
目を開けると、自分に向かっていたはずのナルガクルガが地に倒れじたばたともがいていた。
その目には、一本の矢。
「呆然としてる場合じゃないよ、ムラクモくん」
背後からの聞こえるはずのない声に、ムラクモは思わず背筋を正し倒れたナルガクルガから距離を取った。
そして、警戒を解かないようにしながら後ろを振り返った。
「ともあれ、間に合ってよかった」
そこにいたのは、つい今しがた思い浮かべた人物。
ヒドゥンボウを構えたA/Zが、そこにいた。身に纏っているのはなぜか、ハンターズギルドの受付嬢と同じ服。
「どうしてここに…」
ムラクモの質問には答えず、A/Zは武器を収めてから立ち上がろうとするナルガクルガに何かを投げつけた。
途端漂う異臭に、それがこやし玉だと分かる。
体に付いた悪臭に驚いたのか、ナルガクルガは起き上がるなり跳躍し飛び去っていった。
「音爆忘れてきちったなぁ」
「あの…」
やれやれと頭を掻くA/Zにムラクモがまた声を掛けると、A/Zは「ん」と曖昧に応えムラクモに歩み寄った。
ムラクモはそこで初めて、武器を仕舞った。
「上位のニャルガが渓流に出たけど下位ハンターがペコちゃんの討伐に出てるってギルドで聞いてね。丁度自マキ装備だし行ってきますって」
そう言いながら、A/Zは地面に閃光玉を投げつけた。いや、どうやらクエストリタイアの合図のようだった。
簡潔に語るA/Zの言葉には、ムラクモが使わない略称や愛称が組み込まれていた。彼女はいつも、モンスターなどを愛称で呼ぶ。
「まさかムラクモくんだったとはね。怪我したのは肩だけ?」
ムラクモの足などに外傷がないのを見て、A/Zが尋ねる。ムラクモがそれに是と答えると、彼女は頷いて歩き始めた。どうやら安全地帯へ向かうらしい。
自動マーキングのスキルがついているならば、モンスターの位置を正確に把握しているという事だ。ムラクモも黙って彼女に続いた。
「強いモンスターに出くわしたら、真っ先にネコタクは呼んだ方がいいね。ネコが来るまでに別の場所に逃げてもあの子らはちゃんと来るよ」
「…すいません」
今考えてみれば、確かにそうだろう。それさえも判断出来なかった己の動揺を思い出し、ムラクモは歯噛みした。
(ここにいるのが彼女でなければ、ここまで情けない気分にはならなかったかもしれない)
それがどういう感情から来た考えなのかは、ムラクモ本人にも分かりはしなかった。
安全地帯に着くと、A/Zは現地のアイルーにマタタビを握らせてムラクモを匿うよう告げた。
「本当はついてた方がいいんだろうけど、あのニャルガもせめて追い払っておかないといけないから」
自動マーキングでナルガクルガの位置を確かめたらしい彼女は、ムラクモの分のリタイア用閃光玉を受け取ってから何か黄色い薬――おそらく強走薬ただろう――を飲み干して駆け出した。
ムラクモは声も掛けられず、A/Zの背中を見送ることしか出来なかった。
ナルガクルガを追い払ったA/Zがギルドに帰ってきたのは翌朝のことだと後から聞いた。
ムラクモはと言えばネコタクシーの上で緊張が解けたのか気絶してしまい、失血も相まって長らく眠り、目を覚ましたのは二日が経過した頃だった。
左肩の治療はあらかた終わり、まだ酷く痛むが動かしても問題ない状態まで回復していた。
(ギルド付きの医者曰く「それだけの回復力があれば大成する」とのことだ)
「ギルドからすんごい怒られたよ」
見舞いに来たA/Zもまた包帯まみれの状態で、ムラクモは度肝を抜かれた。
彼女が言うには、ギルドからは下位ハンターを保護したらすぐに帰るよう言われていたらしい。それを独断で立ち向かった挙句に怪我だらけで帰ってきたのだから無理もない。
「あれ絶対金冠クラスだったもんさ。すごく綺麗だったし、本当は捕獲なり何なりしたかったんだけどなぁ」
「確かに、すごく綺麗でしたね」
「でしょ?」
そこでムラクモは、A/Zの言葉を思い出した。
「そういえば俺、迅竜に襲われる前にA/Zさんのこと思い出したんです」
「え、なになに」
「けものは美しくて強かだって」
「ああ、あれ」
すぐに思い当たったらしく、A/Zは納得したように頷いた。
確かにあのナルガクルガはまさにそんな感じだったものね、といくらか真面目なトーンで言う。
何故だろうか。けもののことを考える彼女は、酷く優しい瞳をする。
ハンターという生き方を血生臭い仕事と割り切り、奪った命を振り返らないとまで言い切った彼女とはどこか噛み合わない。
「俺、まだまだA/Zさんから色々学ばないといけないと思います」
「うん? 私だって上位とはいえまだまだ下っ端だよ?」
「それでも、です」
知りたいと思ったのだ。
もっと多く、彼女を。彼女の今までとこれからの生き様を。
ムラクモの顔が珍しく笑顔を作る。
A/Zはそれに面食らったようだったが、すぐに笑い返した。
その笑顔は死を予感したムラクモが思い浮かべたそれそのままで、ムラクモはまた深く微笑んだ。
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憧憬