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苦しみ



結局、うーたんには何も言えぬまま
一ヶ月半が経ちました。
完全に、私はきっと彼女から逃げています。

彼女は人の心を見透かすような人だから
きっと私は目を合わせられない。

ごめんね。ごめん。
あなたのちからになりたいと。あなたの味方であると言いながら結局はきれいごとばかりで。

この間、私の尊敬する上司とご飯を食べに行った。
その人は本当に人のことを理解してくれていて、言い表せないくらいすごい人なの。
ただ、間違っていることを見過ごせない人で、お偉いさん方からは煙たがられてる。


その上司とご飯を食べてるときに、色々と話をしていて、お酒が入ってたこともあるだろうね。
上司はうつ病にみられる症状が上司自身にみられるということを初めて話してくれた。
それから、泣きそうになりながら
「どんなに頑張っても誰も認めてくれないんだよ」と言った。

そこで、「きっと認めてくれますよ」とか「私は上司さんを見てるとよくやってるなって思います」なんて私には言えなかった。

そんなの、上部だけになるじゃないかと。
さらにこの人を追い詰めるんじゃないかと。

それから、逃げていた彼女ことも同時に突きつけられたようで。
どうしていいかわからなくて。


そこで、なにをすればよかった?
まさかさぁ、どうして、どうしてさぁ、。

私の尊敬する人や、愛する人達はみんな生きることにこんなにも苦しんでる。


ねぇ、生きることが正しいの?
生きなきゃいけないの?
私は大切な人たちの足枷になりたいよ。死んでほしくないんだもの。置いていってほしくないんだもの。
もちろんそれは私のわがままで。
死を見てる人には私なんてなんにもならなくて。その人に私は触ることさえできない。私をみてもらえない。


生きるって、なんだろうね。
みんな、死ねば楽になる?
私も、みんなと死ねば幸せになれる?
怖いよ。私は死ぬのが怖いよ。



こんなこと、誰にも相談なんかできないよね。
死ぬことや生きることについて真剣に話し合ってくれる人なんていない。
そんな面倒な話に付き合わせる訳にもいかない。


でもね、このどうしようもない、この不安とかグルグルモヤモヤしてるものをどこかに出さないと、今にも自分を切りつけそうなの。
わけわかんなくなっちゃうの。
苦しい。苦しいよ。


私はどうしたらいい

年月

こんにちは。最近よくない夢ばかりをみています。
まあほとんど朝のうちに家族に話してるので大丈夫だと思いますが。

あれ?夢ってその日の午前中までに話すと叶わないんだよね!だから反対に正夢にしたいものは言っちゃいけないっていう。これって我が家だけなのかな←

まあいいや。


ふと、世界にひとりだけになったら、ということを考えてみました。
私はすぐに死んじゃうんだろうなって思う。
誰かがいなければ何もできないし、なにより孤独は嫌だなぁ。
死ぬ時も、寂しくて寂しくて、泣きながら死にそう。


ひとりになるのは好きだけど、それは誰かと繋がってるからであって、本当にひとりなのは生きてる意味も生きてる価値もわからなくなりそう。
昔このブログで知り合った子に、「ひとは必要とされなきゃ生きられないんだよ」と教わった。
確かにそうだなぁって。


そんなもんで。このブログを始めてから4年か5年くらい経つ?
早いねー。高校の時からだもんね。
このブログのきっかけはイトです。イトがブログをやってたころエムブロを教えてもらって。
それからうーたんのことで周りに話せなかったことをここで話すようになって。
最初の高校生のころは携帯を持ってたけど、親のお金で使ってたからインターネットは繋げなかったので、必至に親の目を盗んでパソコンから投稿したりしてました。


それから、ここだけじゃ物足りなくなって、イトにもうーたんと付き合ってることを話したんだよなぁ。
懐かしいね。


本当に、ここにはお世話になってます。
いろいろな人と出会えて、いろいろな考え方を学んで。みんなと出会えて本当によかった。
いつか、リアルで会ってみたいなって人がたくさんいます。

本当にありがとう。


これからも、お世話になりますがよろしくお願いします。



夢路

健常者も障害者も違う


こんばんは、夢路です。
電車内です。

今日は義足の練習会でした。
行ってきました。


今回もいろいろと得ることが多かったなぁ。
それを忘れないためにも書きますね。メモメモ。

そしてみなさんにも知ってほしいなって思うのです。

今日はね、帰りの電車で途中まで大森さんという方とお話をしてまして。

健常者と障害者にある差別。
でもそれは差別ではなく、どう接したらいいのかがわからない、ということが多い。
それは健常者と障害者だけでなく、障害者同士でもあることなんですね。

例えば私達は片足しかない。
でも世の中にはいろんな人がいて、視覚や聴覚、知的や脳、内部的なものや精神的なものなどそれぞれの障害があるんだよね。
同じ「障害者」でも私達には目の見えない人や耳の聞こえない人とどう接したらいいのかわからない。

その接し方がわかれば、その人が自分の「普通」のフィールドの一部となる。
そうなれば、目の見えない人が「普通の人」になる。
ようは、どこまでできるのか、その人達がどのように生活をしているのかを身近に体感できるのが共存できる方法なんじゃないかな。
「障害者にやさしく」というのは少し違う気がする。「障害者も健常者と同じ」っていうのもなんか違う。
「健常者も障害者も、みんな違う」のがしっくりくるかも。ひとりひとりが同じになる必要はないんだよ。みんながそれぞれ違うんだから。


んんんん……伝えるって難しいな。
文章が支離滅裂でごめんなさい。


ちょっと話変わりますが、
私がこの練習会に参加することを、最初親はよく思ってなかった。得体の知れない集団に通ってって。
だから私も精一杯、親に理解してもらえるように練習会に着てもらおうと思ったらこの間、「べつにいい」といわれた。
「あんたを見てたら、どんな人達と会ってるのかわかるし、なによりいい方に向かってるから」といわれた。
それが嬉しくて、今日練習会の人達にそれを話したら「それは本当によかったね、おめでとう!」って言ってもらえた。


私だけがいい方向にむかってる。
ずっと、幸せな気分になるたびに、彼女のことが頭に浮かぶ。
あれからきちんとした返事を返せないまま。
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