なかなか日記のネタがないので……そのうち書きたい小説のプロローグ部分です。
以前短編で書いた、ピアニストを目指せなくなった少女と音楽教師の話を長編で書きたいなぁと思っているのです。今度はちゃんと恋愛風味で。ファンタジーにはなりませんが。
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窓硝子越しに差し込む陽光はほのかに赤みがかっており、夕暮れへと向かう気配が感じられた。
廊下を照らす淡い光は、人通りがまばらな冷めた廊下を、僅かにだが温かく感じさせる。
だが、男は脇目もふらず、ただ淡々と規則正しい靴音を響かせていた。
視線を揺るがせることもなく、一定のリズムで男は歩を進める。放課後だから当たり前ではあるが、すれ違う生徒は少ない。
それでも、時折すれ違う生徒は、男の姿を視界に入れると瞬時に姿勢を正し、挨拶をしてくる。規律を重んじ厳しい男の性格を、生徒達がある程度身に染みて知っているからこその態度なのだろう。
だが、やはり男の表情は変わらない。微笑むことはおろか、頬が僅かにでも動くことはない。ただの無表情。
何故なら、男は笑うことを止めたから。笑うことだけではない、泣くことも止めた。感情を表現すること全てを止めた。否、感情を殺すようになったと言っていいかも知れない。
故に、その相貌に宿るのは、凍てつくような冷たさと鋭さだけ。まるで周囲を拒絶するような頑なさがそこにはあった。
辛く、悲しいことがあった。受け入れ難く、何も考えたくも感じたくもなかった。だから、ただ感情を捨てた。ただ機械的に生きようと思った。そうすればもう悲しくもない。だから、男は感情を殺す。そんなものは自分には不要なのだと。
男は歩を緩ませることはない。ただ規則正しい速度で、歩幅で、進む。
(この音は……)
だが、その男が足を止めた。
男の耳に届いたのは、重くも高くもない、ピアノの音だ。それは、旋律にもなっておらず、辿々しいもので、音の様子を確かめているように感じられた。
それから、大した間を置かず、緩やかに旋律が奏でられ始めた。初めは軽く、それから徐々にダイナミックに。
聞き流そうと思った。ピアノは男にとって悲しい思い出ばかりだった。忘れてしまいたいことが多すぎて、そんなもののことを考えたくなかった。
――だが、聞き流せなかった。
旋律は柔らかくも、聞き手を離さない。耳に、頭に、全身に響き渡るかのように、音は紡がれ続ける。
思考がピアノに奪われる。ピアノなんて、と思うにも関わらず、思案を巡らせてしまう。
(この音は、どこからだ?)
少なくとも、音楽室からではない。音楽室からならば、これほど遠くには感じられない。ならば?
そこまで考えて、一つの場所が思い浮かぶ。旧校舎の、音楽室。
そういえば、普段は利用することもないので忘れられがちだが、新しく校舎を建て直したために使わなくなった古い校舎がある。他にピアノがある場所と言えば、そこくらいしかないだろう。
気付けば、男の足はそちらへ向かっていた。
旧校舎に近付けば近付くほど、音色ははっきりと聞こえてくる。もはやそこの音楽室からだというのは、疑いようがない。
響き渡る音に、胸が高鳴る。音楽室の前まできて、男は足を止めた。
どこよりも明確に、響き渡っていた。古ぼけた廊下は、まるでコンサート会場のように感じられた。
――美しい音色だった。
ただ、その言葉しか出てこない。その音色を表現出来るような言葉が見つからなかった。
世界の全てを表現しようとするかのような、ダイナミックな旋律。繊細なタッチで表現される、音の重なり。
ただその演奏に、聞き入った。音楽室の前で、耳を傾けた。
(ああ、そういえば、彼女もこの曲が好きだったな)
それは、無意味なノイズ。普段の彼ならば、そう結論付け、思考を止めた筈だ。
だが、少女の演奏にひどく揺さぶられている心では、制止を掛けることは出来ない。
甦り出す記憶、想いは止まらない。微かに震える唇を、小さく噛む。
(もし、彼女がもう少し強ければ。もし、自分がもう少し器用だったなら)
何かが、変わっていたのだろうか。結末は、変わっていたのだろうか。
全ては過ぎ去った過去の話であり、仮定など意味を成さない。
それでも、男は思う。
(ああ、もしも――)
夕焼けの柔らかな光が、男の横顔を照らす。
その頬を、一筋の涙がすっと伝った。
窓の外へ視線を向けると、桜がまるでその演奏を賛美するかのように、とても綺麗に咲いていた。
ただ、音は響き、世界は廻り続けていた。