話題:ひとりごと

日本語について、考えていました。

私は日本で生まれ、日本で育ち、今も日本に住んでいる、生粋の日本人です。
日本語を喋るのは当たり前です。日本人ですから。

ここまで。
ここまでしか私は考えていませんでした。
それで今まで何不自由なく、私は生きてきました。
でも今になって、日本語に疑問を抱くようになりました。
活字を読むようになってからのお話です。

真面目さだけが売りの、勉学はほどほどに自らの趣味に没頭する人生でしたが、ここにきて、なんとなく表現力の壁の高さが分かってきた気がします。限界といいますか。
自身日本人でありながら、正しい日本語を喋る事ができていない。
書き表す事ができない。
著名人が綴る正しい日本語を読んで書いていれば、恐らく私の言う「壁」は無かったに等しいような、そんなレベルであるような事でしょう。私が悩んでいる事は。

ただそれだけの事で人は煽り合える事も分かってきました。
語彙力や文章力の差というのは、日本人古来の品の善し悪しであるという事にも気付きました。

何故ここまで差がついてしまったのでしょうか。
政治家の所為でしょうか。親の所為でしょうか。自分の所為でしょうか。
それとも何処かではたらいてしまった不可抗力でしょうか。

たまに、わからなくなります。
今自分が何を書きたいのか、どう思っているのか。
その文法は正しいのか、今書いた文章は書きたいように書けたのか。
その後に続く文章は、その前に書いた内容は。
今記した記録の本当の意味は。

でもそうした経験を共有しない内に、自分のものだけに留まっている時、不思議と少しだけ幸せな気分になります。
まるで自分の把握している柄のピースが、やっと思う所に嵌ったジグソーパズルの様で。
そこに埋めたいピースが欲しくて、そればかりを求めて歩く指を目で追って。
見つけたと思ったら少し違って嵌らない。ちょっとしたメランコリーだって醍醐味。
すると不意にそのピースに惹かれて、また他を歩く。
ついでに回り道。少しずつ何かを見つける旅路。
不思議と幸せな時間です。

そう思うと、歩き慣れた道の周りには、もっと素敵な物が隠れているかもしれませんね。
今さっきまで考えていた日本語という一つのジグソーパズルもそうなのでしょう。

今はまだ外枠しかないだけなんでしょう。