「好きですよ。でも、あいしてるとは言えない。この意味、分かりますか?」
細い指の上に顎を乗せて、囁くように少年は言った。
伏せがちな瞳に映るのは手元に置かれたティーカップ。砂糖の沈んだ琥珀色を、華奢なスプーンでくるりと混ぜる。
話し始めて15分、彼は一度も私を見ない。
「分からないでしょう。だから貴方には、僕のことばが言葉にしかきこえない」
かちゃり。
濡れたスプーンが白い受け皿に横たわって、私を見上げた。
相変わらず彼は私に目もくれず、優雅にカップを傾けて。スプーンの濡れた瞳だけが、歪んだ私を映していた。
「だから、僕も好きとしか言えないんですよ。言葉しか見えない貴方に、言葉以上に差し出せるものなんてありませんから」
彼が漸く私を見る。私の姿を捉えながら、まるで遠くをみつめるように目を細めて、微笑んだ。
形ばかりの笑顔。ただ、うつくしいだけの。
私の喉を冷たい風が通り抜けていった。ひゅう、と、音を立てて。
じんと痺れる指を、解く。掌が熱い。
ベッドの足元に座り込んで、どれほどの時間が経ったのだろう。数時間のようにも、数分のようにも思える。
巡は、もう帰っただろうか。リビングに置き去りにしてしまったあの子を思う。
解いた指を再び握ると、まだ熱を持っているような気がした。
どうしてこんな風になってしまうんだろう。
傷つけたくない、身体も、心も。真綿で包むようにして守りたい。誰よりも傷つきやすい、あの子だから。
私の目の届くところで、私にしか触れられないところで、私だけが抱き締められるところで。私だけが。
守りたい、のに。
振り上げた手は、投げつけた言葉は、落下する勢いのまま巡を傷つけた。
(痛い)
殴った手がこれだけ痛むなら、きっと張られた頬はもっと痛い。
そう思うと身体の底が抜けて、冷たい風が落ちてくる。
咄嗟に膝を胸元へ引き寄せ、両腕をきつく抱いた。瞬きも許されず身を固くしていると、奇妙に縮こまった足の指が視界に入る。息を止めていた事に気づいたのは、その時だった。気づいた途端、一気に酸素が喉へと押し入ってくる。ひゅっ、と、空気の抜ける音がした。呼吸が荒れる。
こわい。
こわい、いやだ。
きらいにならないで、巡。
巡、巡、巡。
「…繭」
呼吸が止まる。
空気も、時間も、思考も。
「繭」
扉の向こうに意識を集中させる。巡、巡。全身が悲鳴のように名前を呼んだ。巡。
あいしてる、めぐる。
どうして、どうして。
どうしてこんな風になってしまうんだろう。
こんなにも確かな愛なのに、どうして。
私が男を愛せていたら、男になりたいという巡の思いを歓迎できただろうか。
恐れでも、不安でも、嫌悪でもなく。喜びをもって肯定してあげられただろうか。
滲み広がる自嘲が、苦しい。
仮定の話なんて無意味だ。
男という性だけは、どうしても受け入れられない。
昔読んだ本の中で、牛馬と番わされるキリシタンの女が描かれていた。
私なら、死ぬ。男性と関係するということは、私にとってそれと同じだ。男性は“人間の雄”ではなくて、“男”という動物でしかない。それが自分を同種の雌として見ているなんて考えただけでぞっとする。
愛しい巡。誰より愛しい、巡。
あなたという存在をどれだけ愛していても―――私は、女性しか受け入れられない。
(こわい)
愛していたい。ずっとそばにいたい。巡しか要らない、巡だけが欲しい。
巡だけが世界で、神様で、過去で、未来で、わたしなのに。
巡を拒絶するようなことになれば、私は。
(いやだ!)
涙があふれる。扉の向こうにいる巡の姿を、何度も何度も頭のなかに描いて、訳も分からず喚きたい気分に駆られた。
分かっていた。巡を愛していると言いながら、結局は自分のエゴを押しつけているだけだということ。分かっていながら、手放せない自分。
(おかしいのは、私の方だ)
私が男を愛せていたら。
「繭、」
「ごめんなさい」
「…繭」
「ごめんなさい、ごめんなさい…巡、巡、巡」
扉が開く。
手を伸ばす。
めぐる。
(それでも、ね)
「…愛してる」
その言葉は、醜い嗚咽に潰れた。
お洋服、買いにいきたいな。
カラオケで沢山うたって、
そのあと夜カフェするの。
ちょっとだけ飲んで、次のバーへ。
疲れたね、眠いね、楽しかったあ。
そうやって言いながら、ひとつのタクシーに乗り合って。
何でもない一日を妄想してみる。
何でもない一日なのに、ね。
なんでこんなに得がたいんだろう。
さいごに、楽しかったあ、って
言える一日。