匿名アンケートで、150人程度の非常勤含む全教員の中で、担任になってほしい先生は誰かという質問があった。
わたしの名前が一番多く書かれていた。
だからと言うわけではないけれど。
わたしは今年からクラスを持つことになった。
そのかわり生徒はわたしを持つことになったのだ。
卒業してしまったけれど、とても好きで尊敬していた、すこし苦手な子が言っていた。
わたしはその子に泣き言を言ったのだ。みんなを背負える自信がないと。わたしは他人にたいして愛着がもてないのだ。どうしても無責任なのだ。
彼は何かを考えているようだった。そしてわたしを見ずに言った。
「好かれるために優しくする先生はだいたいなめられます。なめられないように厳しくする先生はバカにされて嫌われます。
でもあなたがそうじゃないのは、みんなから好かれて尊敬されているのは、あなたが僕らの視線になって物事を見るのが好きだからなのだと思う。自分の視線から物事を見るのと、僕らの視線で物事を見る使い分けがとてもうまいから。
ご存知のように、僕らはバカでも子どもでもないです。背負ってもらわなくて結構です。」
そう捲し立てると、彼は景色を見つめたまま黙ってしまった。月並みな言葉だけれど、とても綺麗な横顔だった。
わたしはなにか言わなければならないような気がして、「そっか」と何度か口にした。それでもなにも言葉が出てこなかった。
そんなわたしを見かねてか「はい、ほら、おいで」と彼はすぐ隣にいるわたしに左手で手招きをして、右手でわたしの腕を掴んで引き寄せた。とても大きくて、白くて、長く細い指は、背が高く華奢な彼にぴったりだと、腕を掴む彼の手を見つめながらぼんやりと考えていた。
彼の抱擁は過去に二度経験しているが、外国人がよくやる親愛の情から腕を浮かせるような、肩の骨格を動かすようなそういう種のものを感じさせる。彼はわたしのことなんて眼中にないのだ。
彼の首に顔を埋めると、わたしの腰に回された手が力を増した。
「さっき、わたしはみんなから好かれてるとか、君、言ったよね。でも、君からは、あまり好かれていないような気がするけど」
首に顔を埋めたまま、わたしは彼に聞いた。耳元でふわっとした笑い声が聞こえた。彼の笑い声がとても好きなのだ。どうしてか自分も笑いたくなる。人を幸せな気分にさせる笑いかただ。
「その原因は、たぶん、俺はあなたを先生として見てないから。一人の女のひととして見てる。最初から」
「うーん」
「そしてあなたは俺を生徒として見てない。たぶん」
たぶん、ともう一度口にして、彼は腕の力を強めた。
図星だと思った。彼にとってわたしはあまりに優しくない。彼に好意を持ってもらいたくて、わたしは彼にとって優しい材料にはなれていなかった。
わたしは黙っていた。なにか言わなければならない。そう考えれば考えるほど、言葉が出てこなくなる気がした。まるで太陽の下に置かれた白い紙を見ているようだった。さらに腕の力を強めた彼は、いつもと変わらず躊躇なく言った。
「俺はこのままだと、あなたのことしか見れなくなる。あなたしかいらなくなる。こんな状態でも、俺は、あなた以外いらないと考えている。あなたのことしか見たくない。そう、あなたのことしか見たくない。あなた以外いらない。俺は、あなたが好き。あなたの中身が好き。ずっと一緒にいたい。
でもそれじゃダメなんだ。俺はもっとたくさんの世界を見なきゃダメなんだ。だからって、五年後に会いたかったなんて言わない。俺は今、あなたに会えてよかったと思ってる。
だから、できることなら」
彼は押し黙って、腕の力を弱めた。
「俺の前から消えてほしい」
なにも言えなかった。やはりなにも、彼に優しくできる言葉が思い付かなかった。
どうしてこうなってしまったのだろう。
彼から離れて「せっかく会えたんだから、消えたくはないんだけどな」と自分のわがままを言葉にするしかなかった。彼はすこし微笑んだ。良い顔をしている彼は、とても綺麗な笑顔をつくる。やっぱりわたしは、彼に優しくできないなと思った。彼がとてもかわいそうだと思った。
それ以来、毎日とっていた連絡をやめた。連絡をとること自体をやめた。会うこともない。
わたしはわたしを持つことになった優秀な生徒たちのためなんだか、自分のためなんだか、雑用なんだか、とにかく忙しい。
彼との連絡手段は生きているようだが、とくに気にすることはない。
ふと考えるのは、人を幸せな気分にさせる彼の笑顔をまた見たいということだ。そんなこと、と思う。彼に会おうと思えば会えるのだ。わたしは彼の居場所をみっつ知っている。すべて彼がわたしに教えたのだ。
しかしそれができないのは、わたしが、彼に優しくする方法を知らないからだ。なぜなら、お互いにとって、お互いの存在が一過性のものでないといけないと感じるから。
ただ、ひとつだけ、ひとつ自分に自信が持てたら、彼にまた会おうと思う。