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どうにも理解に苦しむイキモノによるつれづれなるブログ。ちょっと腐女子注意。。
ひとは忘れてしまう生き物だから、少しでも残しておこうと思って、こんなところに書いてみます。
今日、うちの犬が亡くなりました。享年15歳でした。
うちにやって来るなり病気やらかしたり、気胸になったり、いろいろと父や祖父に手間をかけさせた子でした。
私がうまくしつけできなかったのもあって、非常にフリーダムで自由奔放な犬でしたが、ばかで可愛くて、元気な犬でした。
なんかもう、既に過去形になってるのが非常にやるせないのですが。
いのちを預かるということを、最期まで身をもって教えてくれた存在でした。歳を重ねるごとに、だんだんと茶色かった毛並みが白くなっていき、足腰が衰えて痩せ、そして、だんだんとボケて昼夜がわからなくなり、耳や目もほとんどきかなくなっていきました。
最期は、立ち上がれもしなければ、首すらもたげられない状況で、くったりしていました。
でも、やっぱり、水を口の端から流してやると、飲むんですよね。
祖父にチラリと安楽死させる云々という話を受けたのですが、見取ることはできなかったけれど、家で最期をむかえさせることができたのは、本当によかったと思っています。
もともと、保健所に持ちこまれた子犬を引き取って来たものでしたし、家族をひどく咬んだり、いろいろと家で飼い続けるには困難な状況もありましたが、ここまで来れました。父と祖父には、本当に頭が上がりません。
ところで、度々、「あんたが飼いたいって言ったから」という言葉を家族に言われました。でも、もちろん子どもの独断で飼うのは無理ですし、飼おうと言ってくれる家族の同意があったからこそ、飼おうという流れになったわけで、つまりこの言葉は、世話を怠けたりする私を戒めるためにあったわけです。
でも、死ぬか生きるかという場面で使うのはどうかと思いましたし、もちろん責任の多くが私にあるのは認めさせるべきですが、全ての責任が私にあると思わされるのは正直辛いものがありました。ペットを飼うということは、本当に、家族の総意で、決めるべきだなと思いました。
そして、安楽死に関して。正直、ペットの苦しみを取り除く最期の方法としての「安楽」死ですが、どちらかというと、「見ていられない私たちの気持ちのために」、安らかに逝かせてやる、という印象を何となく受けました。
とにかく、ペットは人間の都合のために生きています。そして、都合のために死ぬことすらあり得るわけです。以前、アライグマを飼った女性のエッセイを読みましたが、例えば、大きな災害で避難する時は、ペットは連れていけない……。そういうことを、覚悟の上で、カワイイオモチャではないということ、いのちを預かるということを、自覚して飼わなければならない、かなり重い選択なのだな、と思いました。
そういう意味では、私はなかなかに失格な飼い主でした。私のために来てくれた子を、いちばんないがしろにしたのは私かも知れません。最期の方は、私にはあの子の死に際して泣くような資格があるのかと思っていました。
でもダメですね。冷えてかたくなって、なんの音もしない、動きもしないあの子を前にしたら、本当に涙が止まらなくて、ごめんねごめんね、寂しかったね、辛かったね、頑張ったね、お疲れさま。ありがとう、ありがとう、あなたがいて本当に楽しかった。……言葉を並べずにはいられませんでした。
多分あの子は、私のためにきてくれた、生涯でたった1匹の犬です。少なくとも、今の家族が生きていて、私に伴侶ができたり子どもが生まれたりしない限り、もうペットは飼わないでしょう。
でも、もしも、またいのちを預かるかどうかという選択を迫られた時は、責任を受け止めて最期まで見届けたいと思います。
ありがとう、うちに来てくれて、本当にありがとう。またいつか、同じ所へ行くことができるのならば、会えることを願っています。
いやぁ、自分久々にもの書いてるなぁ。
こっちの日記更新すんの久々だなー。ども、新潟に戻ってきてる真砂夜です。
ナルシーって言われるかもですが、私は自分の作品を読むのが好きだったりします。
しばらくぶりに兄貴と会った。やっぱり、なんか安心するというか何というか。
性 別 | 女性 |
誕生日 | 1月30日 |
地 域 | 新潟県 |
系 統 | 普通系 |
血液型 | B型 |